Project Seven

presented by PSY

■第九話・集会■


 窓の向こうに、滑走路の景色が近づいてくる。
 アメリカ、サンフランシスコ空港。
 ちょうど辺りは日が暮れてきたところだ。翼の向こうに、街の明かりがちらほらと灯りはじめているのが見える。
 わずかな衝撃とともに、飛行機はアメリカの大地へ着地した。
 減速しながら滑走路を滑る間、日本語と英語のアナウンスが、搭乗のお礼と旅の幸運の祈りを告げる。
 空港のロビーへ降りて、譲はどこか懐かしい思いにかられた。
 辺りに歩く客は半数が白人、メキシコ人や黒人、アジア人も少なくない。緊張した様子で辺りを見まわしているのは日本からの団体旅行客だろう。旗をかかげたツアーコンダクターが声高に何かしゃべっている。
 異人種の交じり合った雑多で開放的な雰囲気。学生時代、ホームステイで一度訪れたきりなのに、当時の感覚がそのままによみがえってくる。
 空港の外へ向かいながら日本人の修学旅行生達がいないか辺りを見回してみた。それらしき集団は見当たらない。
 多分、もうホテルへ向かったのだろう。奈々には夕食の後にでも電話してみるか。
 ホテルは空港からバスで一時間ほど行ったところ。LineMastersの会場からは歩いて十分程度のロケーションにある。
 入り口にロブスターの横たわるそのホテルについて見ると、観光客に混じってアメリカのハイティーンや大学生のグループがたむろしていた。
 圧倒的に若い連中が多いのは、ホテルの価格と雰囲気のせいかもしれない。BGMはお決まりのクラシックや環境音楽ではなく、最近のヒットナンバーが流れている。
 とりあえずチェックインしてシャワーを浴びた後、これからどうしようかと考えた。
 夕飯でも食いに行くか、それとも先に電話すましちまうか。
 携帯電話をとりあげ、一瞬迷う。修学旅行中の女子高生に見知らぬ男から電話がかかってくるのって、かなり怪しくないだろうか?
 あまつさえ、奈々がその後こっそり抜け出してきたら。学校側が疑い、警察に通知がいったとしたら、まずどう考えてもホテルに電話をかけてきた不審な日本人男性の線から調査が進むに決まってる。
 とはいえ・・・・・・
 番号を非通知に設定してダイヤルしかけた瞬間、チャイムが鳴った。
 一瞬心臓が飛びあがりそうになり、ついで不信感が頭をもたげる。
 俺がここに泊まっていることを知っているのは、務くらいの筈だ。その俺を、いったい誰が訪問してくるっていうんだ?
「はい?」
 戸口ごしに尋ねかけ、ここがアメリカであることを思い出して「Who's there?」と問い直そうとした時、
「こんばんはぁっ!」
 元気の良い日本語が扉の向こうから聞こえてきた。
 あわててドアを開け、唖然とする。開いた口が塞がらないとはこのことだ。こんなところに一人でのこのこやってくるなんて。
「じゃーん。驚いた?」
 ドアの向こうで、奈々は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
 譲は反射的に廊下の人通りを確認してから奈々を中に招きいれる。誘拐容疑で手配されてはたまらない。
「修学旅行中だろ。勝手に抜け出して大丈夫なのか?」
「なぁんだ。知ってたのか。びっくりさせようと思ったのに。」
 残念そうに口をふくらませる奈々に、譲は苦笑した。
「びっくりしたさ。どうしてここが?」
「なんたってこっちはハッカーですからね。情報は速いわけよ。」
 そう答える奈々はむしろ得意げに胸を張る。
 やれやれ。プライバシーの尊重とか犯罪とかいう単語は頭の中にないんだろうか。
「修学旅行の方は? 夕飯とか、みんなで一緒に食うんだろ。」
「バイキング形式だから、好きな時に食べにいけばいいの。結構自由行動が多いのよ、今回の旅行。」
「へえぇ、俺が高校の頃なんか、ハワイで、しかもすげぇ時間とかうるさかったけどねぇ。」
「一世代違うのよ。お・じ・さ・ん。」
「こら。」
 譲は軽く奈々の頭をこづいてみせた。
 ハッカーの集会に出たら、俺って年とってる方なんだろうか? それとも三十代、四十代の連中もいっぱい来てるのか?
 その筋の人間といえば奈々と務くらいしか知り合いがいないので、まるきり検討がつかない。
「LineMastersは明日の四時から三日間。けど、そっちはあさってにゃロサンゼルスの方に行っちまうんだろ。Thunderに会えるとしたら、明日の晩か。」
「明日のお昼くらいには出られると思う。午後一緒に遊ぼうよ。」
 奈々がはしゃいだ調子で言った。
 譲は修学旅行の日程表を思いかえす。鞄のポケットを探りながら、
「あれ、でも、明日ってラスベガスとか行くんじゃなかったっけ?」
「オプショナルツアーでしょ。行きたかったけど、大会があるからキャンセルしちゃった。どうせギャンブルやらせてくれるわけじゃないし。って、なんでそんなことまで知ってるの?」
 譲は一樹にもらったコピーを振ってみせた。
 奈々が紙をとりあげて、中をめくる。オプショナルツアーの参加者リストに小林 一樹の名前があり、赤線で消して望月 奈々と書き直してある。
 あいつ、こんなものまで譲に渡してたんだ。おせっかいっていうか、心配性っていうか、几帳面っていうか・・・・・・
「なんだ、じゃあ譲もあたしの行動、全部把握してたんだ。」
 紙を返して勝手にベッドの上へ腰をおとす。
「あいつも結構、油断ならないわよねぇ。つい最近までハッキングのハの字もしらなかったくせにさ。」
「クラスメートの行き先を把握してるくらいそれほど変わったことじゃないだろ。職員室のコンピュータに侵入したわけじゃあるまいし、単なる・・・・・・」
 恋心だよ、と言おうとして譲は口をつぐむ。
 奈々はあいつのことどう思ってるんだろう? 少なくとも相手と同じだけの想いは持っていなさそうだ。
 <役に立つクラスメート>くらいかもしれない。気の毒に。
 奈々は気づいた様子もなく先を続ける。
「おんなじことよ。ハッカーだって、情報を仕入れるにはまずトラッシングから始めたりするしね。」
「トラッシング?」
「ごみ箱漁り。通信会社のしくみとかコンピュータ会社の設計図とか、個人情報とか拾い出すわけ。スマートじゃないからあたしは嫌いだけど、結構使えるみたいよ。今じゃ一般家庭にもシュレッダーが普及してるけど、いまだに電子マネー会社からの通知とか、そのまんまゴミ箱に捨ててるアホもいるし。」
 そう、何もコンピュータシステムに侵入することだけをハッキングって言ってるわけじゃないのだ。禁じられた情報にアクセスすること、分からないことをとことん追求すること、それがハッキング、と奈々は説明する。
「知りたい、それがハッキングの動機?」
「そう。好奇心とスリルと。それに・・・・・・」
「それに?」
 それに? と奈々は自分に自問自答する。
 それだけじゃないような気がする。
 何かに追われている感じ。
 うんと堅いシステムの侵入に成功した時、世界を手に入れたような気分になる。でも、しばらくすると・・・・・・不安に襲われるのだ。
 だってそうでしょ、誰が見ているか分からない。いつ自分が攻撃されるか分からない。
 だから、次のターゲットを探し始める。自分の力を証明するために。
 目標に向かっている間だけは、他のことをみんな忘れていられる。
 学校のうんざりするような繰り返しの毎日や、自分自身のこと。このあたしが世の中ではうんとちっぽけな存在で、とるに足らないような人間なんだと思わずにすむ。
 でもそれって・・・・・・
 奈々は咳払いした。
「・・・・・・じゃ、とりあえず明日十二時頃に抜け出すから。部屋にいる?」
「外のレストランででも待ってるよ。奈々のホテルはどこだっけ?」
「このホテルから通り三つ向こうのところ。後で案内するよ。ね、夕飯食べにいかない?」
「バイキングがあるんだろ。」
「いいよ、あんなの。外にさ、アイスが凄くおいしい店あるんだって。行ってみようよ。」
 奈々は勝手に歩き出し、仕方なく、譲も財布だけ持って外へ出る。
 夕食を終えて出てきた高校の先生がこんなところを見たら、なんて思うだろう?
 務のセリフじゃないけれど、やっぱり犯罪者だろうか。
 とはいえ、そのスリルに興奮している自分もどこかにいる。
 外に出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。ビクトリア調の家々が白い蛍光燈の光にライトアップされ、少し先の高層ビルには点々と明かりが灯っている。
 車道の向こうにはソフトクリームのトラックがとまり、ラフな格好の若者や気の良さそうな老人夫婦がアイス片手に通りを行き来している。
 ま、俺も会社やめたことだし。学生に戻ったつもりで遊んでおかないと損かもしれない。
 先生の目を忍んでホテルから抜け出すなんて、ワクワクするじゃないか。
 譲は奈々の肩を叩いた。
 ちょっとびっくりしたような奈々に、
「早く行こうぜ。さっき言ってた店、どこにある?」
「あっち! 通りの向こう。」
 奈々が道の反対側を指差す。
 二人は車道に出て走り始めた。

 ホテルのロビーで、奈々はあくびを噛みころした。
 前方ではマイクをつけた先生が長々と話を垂れている。
「・・・・・・というわけで、近郊を散策する時はくれぐれも注意してください。たとえ日本人から声をかけられても、軽々しくついていかないこと。不審な人を見かけたら、私のところへ必ず連絡するように。番号は・・・・・・」
 ちらっと時計に目をやった。十二時半を少しまわったところ。
 もうっ。約束に遅れちゃうじゃない。
「以上。それでは解散っ。」
 話が終わるやいなや、同級生をかきわって奈々はホテルの外に走り出た。
 ええと、どこの店だっけ?
 通りを渡って、辺りを見回す。
 あった、あの角のシーフード料理店。
「お待たせっ!」
 奈々は店にかけこんで声をあげた。
 まわりの人が二、三人ふりかえったけど、嫌な顔でジロジロ見たりはしない。なんたってここはアメリカなのだ。みんな声が大きくて、よく笑う。
 大きいのは声だけじゃない。
 図体のでかさときたら。
 縦にも、横にも。なんだか小人になった気分だ。
 譲、まだ来てないのかな?
 奈々は伸びをして店内を窺う。
 いた! 奥の方で手をふる譲が見える。
「ごめんね。センセの話が長くてさ。」
 言い訳しながら隣に腰を下ろした。
「ホントに抜け出して大丈夫なのか?」
「平気平気。ね、なんか注文しようよ。」
 メニューを取り上げ、奈々は、ゲ、とつぶやいた。
「なにこれ、英語じゃん。」
「そりゃそうだろ、アメリカなんだから。右のページに日本語もあるけどね。」
「あ、ホントだ。」
 奈々はぺろりと舌を出し、ミニスカートの店員を呼びとめて、指差しながら注文した。
「シーフードサラダでしょ、ミックスピザでしょ、それにアイスティー。
あ! あと、このデコレーションケーキ、もらっちゃう。」
 奈々が指差した写真を見て、店員が何か話す。
 奈々は眉をひそめ、譲のほうへ身を乗り出した。
「ね、なんて言ってるの?」
「誕生日なのって聞いてるけど。それ、ローソク立ってるだろ。バースデー用の特別サービスだってさ。」
「うん。もらうもらう。」
「今日誕生日なの? っていうかそんなに食えるか。アメリカのケーキってデカイぜ。」
「いいんだもん。自分に誕生日プレゼント。」
 譲が店員に説明し、自分も注文すると、彼女はあっ、そう、といった調子でうなずいて去っていった。
 美人だが素っ気ない。スマイル0円はここでは通用しないらしい。
 やがて注文したものが大きなプレートに乗って運ばれてくると、さすがの奈々も目を丸くした。
 なかでもピザの大きさたるや。3人前ぐらいはありそうだ。
「こんなの食べてたらそりゃ太るよねぇ。」
 そうぼやきながらも、出てきたメニューをぺろりと平らげたのは、若さゆえのパワーだろう。
 食事を終えて、奈々達は観光案内を広げてみた。
 官庁の建ち並ぶシビックセンターに五重の塔のある日本人街、博物館や温室のあるゴールデンゲートパーク。
 見所はいくらでもある。
「ねえ、どこに行ってみる?」
「奈々にまかせるよ。」
「じゃあさ、とりあえず、海の方に出てみるのってどう? 観光船に乗れるかもしれないし、マリンワールドもあるし。」
 店を出て少し歩き、ケーブルカーに乗り込んだ。
 観光客をいっぱいにのせて、車体はゆっくりと動き出す。
 開いたドアの向こうを、大きな車が行き来している。
 通りの上には、抜けるような青空。
 開放的な雰囲気に、奈々はドアから身を乗り出して、意味もなく外の通行人に手を振ってみたりする。
 やがて急な坂道の下にキラキラ輝く海がだんだん近づいてきた。
 坂を下りおえ、終点までやってくると海はもう目の前だ。
 左手には公園があり、その向こうに海洋博物館も見える。
 さてどこから行こう、と時計を眺めた奈々は、あ〜あ、と溜息をついた。もう三時近い。
「ごめん。観光船は無理みたい。選択、失敗したかも。」
「まぁいいさ。この辺ぶらぶら散歩したって楽しいし。お楽しみは夕方から、だろ?」
 奈々は思わずにっこりする。
「譲って、優しいね。」
「俺が? 生まれて始めてだぜ、そんなこと言われるの。」
 譲の脳裏に、一瞬固い口調の声が響いた。
『あなたって、冷たいのね。』
 詩織の声だ。もう昔の話だし、過去の傷なんてない。けれど、その言葉は否定できない、と思う。
「冷たいって言われたことならあるけど。」
「ホント? だとしたらその人、見る目がなかったんだよ。きっと。」
 奈々は真面目な顔で言った。
「あたし、ちゃんと分かるもん。一見クールだけどさ、人の気持ち、ちゃんと考えてくれてる。遠くから包みこんでくれる感じ。」
「その辺でやめとけよ。むずがゆくなってくる。」
 譲は身ぶるいしてみせる。
 フィッシャーマンズワーフと呼ばれるこの辺りのエリアは、買い物のメッカだ。
 海沿いにぶらぶら歩いていくと、蟹を売る露店や小さなお店がにぎやかに見えてくる。
 売っているのはTシャツや小物、ネックレスや何か。明るい色使いのおしゃれなものが多くて、ちょっとしたお土産にはうってつけだ。
 あっちへこっちへと覗きこみながら歩いていた奈々は、ふと、とあるショーウィンドウの前に貼りついた。
 銀製の小さな指輪がある。貝の形の台上で、ルビーみたいな真紅のガラスが赤い影を落としている。
「これ、手作りかな。すっごいかわいい!」
「買ってやろうか?」
 譲の言葉に、奈々は目を丸くした。
 実のところ、もっと驚いたのは言った当人だったのだが。
 おい、正気か? お前、まんまとハッカーの騙しの手口(ソーシャル・エンジニアリング)に乗せられてないか?
 そう思うのだが、不思議なことにそれほど腹もたたない。
「ホントに? でも今、失業中なんでしょ?」
「まあ、そこまで切羽詰まってるわけじゃないし。誕生日に、誰にも祝ってもらえないんじゃ寂しいだろ?」
 奈々はちょっと下を向いた。
 それから考え直したように相好を崩して、
「うん。じゃ、買ってもらっちゃおっかな。ありがとう。」
 代金は十ドル。現金払い。
 ちょっと待てよ、いくら安物でも指輪ってのは・・・・・・
 譲は一瞬手をとめる。
 男から女の子にあげるには、まずいんじゃないか?
 とはいえ、うれしそうに指輪をはめる奈々を見て、ま、いっかという気になってくる。
「ね、一緒に写真撮らない?」
 店の外に走り出た奈々が、大きな蟹の看板の下から呼びかけた。

 LineMastersの会場であるホテルの前には、入場を待つ人たちの行列ができていた。
 奈々と譲は受付で三ドル払い、バッジをもらって入場する。
 会場は案外広く、明るくて、少々予想外だった譲はへえぇ、と思わずつぶやいた。
 コンピュータを展示したブースや、椅子の並んだステージは、お馴染みのPCソフトウェア展示会そのままだ。
 ただし、会社向けのフェアと何より違うのが参加者達で、GパンにTシャツ、スニーカーといったラフな格好の若者が圧倒的に多い。
 年が若くなるにつれ、突拍子もないデザインの者も増えてくる。
 全身が色とりどりのボタンで覆いつくされた服。グリーンとピンクのサイケデリッシュなズボン。金のマーカで顔に模様が書いてる奴なんかも。
 中年のハッカーの姿も思ったよりは多い。タイトなワンピースを着た女性もいる。
「サンダーはどこにいるって?」
「プリティ・アックスってハッカーが段取り兼通訳してくれるってことになってるんだけど。電話貸してもらえる?」
 奈々はイヤホンを耳に差し、反対側の耳をふさいだ。
 三コール、四コール・・・・・・ついで留守電(ボイスメール)の声。
「駄目だ。つながらないや。」
「どんな奴なんだ? 男? 女?」
「わかんない。目印は銀色の髪の毛。あとイエロー・フィッシュカフェのバッジをつけてるって。」
 譲は会場内を見渡した。
 カメラを手にしたジャーナリスト達が、開会演説を待って壇上にレンズを向けている。期待に満ちたざわめきで辺りはかなり騒がしい。
 栗毛、黒髪、金髪はもちろん、ピンクやグリーンに染めた頭も見かけたが、銀色のは見あたらない。
「困ったなぁ。あたし、英語苦手なのに。」
 英語は奈々の一番の苦手科目なのだ。単語や文章を一生懸命暗記したり、音読したり、めんどくさいったらない。文法にしたって例外事項が多すぎて、だから自然言語って嫌いなのよ、と言い訳したりする。
「遅れてくるのかもしれないぜ。後でまたかけなおしてみたら?」
 譲が言ったとき、照明が暗くなった。
 壇上にライトが照らされ、会場がしんとなる。
 カジュアル・スーツに長髪の司会者が出てきて、開会演説をぶつ。
 フラッシュ、歓声、笑い声。
 何かジョークを言ったらしい。野次が飛ぶけれど、奈々にはなんのことか分からない。
 続いて二、三人の人が出てきて演説する。
 挨拶が終わると、英語が分からずに退屈していた奈々はホールの外に出てみた。隣の部屋にはブースが出ていて、さまざまなイベントをやっている。
 プリティ・アックスらしき影を探しながら、奈々は息をついた。
「いないみたい。」
「サンダーの顔はわかる?」
「見たことない。でも、あのピエロに、SEVENが会いたがってるって話つけといてもらったの。どっかで目立つことをしたら、気づいてくれるかも。」
「目立つっていってもなぁ。」
 部屋の隅でロウティーンの少年達がパイを投げ合って遊んでいる。誰かが投げるたびに大爆笑の渦。
 目立つっちゃあ目立つけど、IDがPRできなきゃしょうがないわけだし。
 最新型パスワード生成機(ジェネレータ)だの新作ウイルスの展示だのの間をめぐっていると、誰かがビラを手渡してきた。
「なんて書いてあるの?」
「ハッキングコンテスト。Gateってコンピュータに早く侵入した順に商品だってさ。五時から。おい、もうすぐじゃないか。」
「へぇ、譲、英語得意なんだ。」
 奈々が感心したように言う。
「得意ってほどじゃないけど、まあ、読み書きくらいはね。義務教育で十年以上もやってるわけだし、大学時代に嫌というほど論文読まされたし。」
「うぇ、数学科でも、英語使うの?」
 奈々は顔をしかめる。
「あたし、英語苦手なんだけどなぁ。・・・・・・ところで、商品って?」
「主催者からの秘密のプレゼント。」
「面白そうじゃん。参加しようよ!」
「でも、パソコン必須って書いてあるぜ。持ってきてないだろ?」
 奈々はうなずき、不機嫌な顔になった。
 普通なら修学旅行だってなんだって何かしらの情報端末は持ってくるのだけれど、警察に没収されている以上仕方ない。
「譲のは?」
「まあ、あるにはあるけど・・・・・・遅いぜ。」
「それでやろ。ツールがないからやりにくいけど、一等がとれればプリティ・アックスかサンダーがこっちに気づいてくれるかもしれないし。」
 大会場に戻ってエントリーナンバーをもらう。
 『Gate』を破って、GOALというフォルダのファイルをコピーしてくればオーケー。制限時間は三時間。
 奈々は譲の端末を立ち上げた。
 重さ300グラムくらいの超薄型ラップトップで、うん、確かに使いにくそう。
 使いなれたVRーOSで、基本的なネットワークソフトが入ってるのがとりあえずの救いだ。
 目の前には五台のコンピュータが並んでいる。
 一番左がお目当ての『Gate』サーバ。
 ケーブルの差込口は用意されてない。赤外線か電波か、まずはネットワークへの物理的入り口を見つけるところから始めなくちゃいけないってこと。
 赤外線で一台目の端末にログインできることが分かる。
 で、問題は侵入方法だけど。
 奈々はOSのバージョンを調べてみる。
 Ver.3.1+サービスパック2。ってことは、不正パケットを送り続けてシステムを不安定にできた筈。
 ようやく中に入り込めた。マシン名がマーキュリーであることが分かる。ここまで五分。悪くない。
 横から見ている譲にVサインを突き出した。
「侵入成功?」
「まだ一台目だけどね。」
 譲が驚いた顔をするので、奈々は得意になる。
「いくつかコマンド叩いただけだろ。見てても分からなかったな。」
「後で教えたげる。待って、今から奈々ちゃんの華麗なテクを見せてあげるから。」
 入りこんだサーバからネットワークの内部を調べてみる。応答が返ってきたマシンは二台。残るは防御壁(ファイアウォール)の向こう側ってことだろうか。
 二台目、ヴィーナスのOSはバージョンが新しく、ちゃんとパッチも当たっている。他にどんなセキュリティホールがあったっけ?
 色々調べている内に、二台目はプリンタ・サーバを兼用していることが判明。プリンタのふりをしてエラー・コマンドを送り続ける。その隙に、三台目のマシン、マーズに入りこむ。ヴィーナスとマーズは信頼関係を結んでいるのであっさり制圧。
 問題はその後。『透明な』ファイアウォールマシンをどうやって見つけるかだけど。
「譲、パケットスニファーなんて持ってないよね?」
「なんだって?」
「パケットスニファー。ネットワーク上を飛んでるデータを監視するツール。」
「ない。っていうか、それ、ほとんどソフト入ってないぜ。外出する時にメモ代わりに使ってるマシンなんだから、ネットワークの監視ツールなんて必要ないだろ。」
 ハッカーの間じゃ必携なんだけどねぇ、と奈々はため息をつく。
 まぁ譲はまっとうなプログラマなんだし、しょうがないか。
「ねぇ、譲のIDでWWVS(ワールドワイドバーチャルスペース)にログインしてもらえない?」
「WWVS? おい、何やらかすつもりだ?」
「ハッキングツール、どっかから持ってくる。ネットにごろごろ転がってるから。」
「妙なサイトにID残さないでくれよ。」
 譲はため息まじりに虹彩識別グラスをつけ、WWVSにログインする。検索をかけるとすぐに「秘密の管理人v1.2」が見つかった。日本版のパケットスニファーだ。
 ソフトをダウンロードして解凍、インストール。
 既に三十分が経過している。
 急がなくっちゃ。
 ソフトを立ち上げて、ファイアウォールが他のマシンの状況を確認するためのパケットを送ってくるのを待っていると、いきなりファイアウォールをインストールしたサーバがクラッシュした。誰かが攻撃をしかけたらしい。
 まったく乱暴なんだから! と奈々は悪態をつく。
 それでも、サーバが再起動してくれたおかげで、ファイアウォールソフトの立ち上がる直前に入りこむことができた。
 多分、サーバをクラッシュさせた犯人も今同時にログインしてる筈だ。ここからが勝負!
 ネットワーク内のマシンを探してみる。すぐに「Gate」サーバが見つかった。
 ファイアウォール内のデータを検索して、「Gate」に接続権限を持ったIDを調査する。
 これでようやくGateに侵入できる!
 奈々はドキドキしながらIDとパスワードを打ち込んだ。
「すげぇな。一番乗りだぜ。」
「後はGOALフォルダを探せばオッケーね。」
 GOALと打ち込んで検索をかける。ひっかからない。
 奈々は舌打ちした。
 アクセス権限がないのだ。
 考えられる方法を色々試してみたけれど、奈々が知っているセキュリティホールはほとんど全部塞がれているようだ。
「やっぱり最終関門は手ごわいわよね。」
「難しい?」
「待って、そういえば。」
 奈々はルームの窓に手をのばし、プログラムのリストを引き出した。何行か書き換えて窓を開く。
 細長いペーパが現れて、ひらひらと落ちてきた。
「やった! 前に別のソフトで似たようなバグを見つけたことがあるの。そっちは修正されたけど、これは古い命令をそのまま使ってる。これ、なんだか分かる?」
「さあな・・・・・・待てよ、拡張子がPWDって、つまり・・」
「そ。パスワードファイル。」
 奈々はニッと笑ってみせた。
 パスワードファイルには、IDとパスワードが一方向関数で暗号化されて記録されている。OSは打ち込まれたIDとパスワードを一方向関数で変換して、パスワードファイルのものと照合する。一方向関数には逆関数が存在しないから、パスワードファイルから元のIDとパスワードに戻すことは不可能だ。
 手当たり次第IDとパスワードを打ち込んで一方向関数にかけ、パスワードファイルのデータと一致するかどうか調べるしかない。でも、まさか手で延々といろんなIDを打ち込んでみるわけにもいかないし。
「譲、まさかパスワードクラッカーなんて持ってないよね? パスワードを破るプログラム。」
「持ってるわけないだろ。」
「だよねぇ。」
 古典的で美しくない方法だけど、パスワードクラッカーがあれば辞書ファイルにある単語を自動的に一方向関数で変換してパスワードファイルと照合してくれる。奈々が昔作ったソフトは、パスワード生成ツールと同じ働きも持っていて、それらしきパスワードも試してくれるようになっていたんだけど。
 パスワードファイルは英日辞典かなんかのデータベースDBにちょこっと手を加えればオッケーだ。プログラムは・・・・・・作ってる時間ってあるだろうか。
 ExtremeJAVAの開発ツールを表す画面上のパソコン型オブジェクトをポイントしようとして・・・・・・
 奈々は固まった。
 ちょっとっ。ないじゃないのよっ!
「譲、このマシンって開発ツール入れてないの?」
「入れてないよ。だから何も入ってないっていっただろ。」
「いやぁ、信じらんなーい。」
 奈々は頭を抱えた。
「前見せてくれたマシンには、会社の仮想部屋(マイ・ルーム)と同じ開発環境が入ってたじゃない?」
「あれは会社のソフト。会社を辞めた時にアンインストールしたの。」
「うわ、真面目。」
 なんて感心してる場合じゃない。
 でも、ホントに何も入ってないんだろうか?
「譲、プログラマでしょ? 言語の入ってないパソコンなんてただの箱
じゃんっ。」
「テキストツールと翻訳機(コンパイラ)さえあればツールなんてなくたって開発できるぜ。VR―OSはExtremeJAVAの逐次翻訳機(インタープリタ)を標準で装備してるし。開発用の統合環境って立ち上げが重いだけだから、普段も一部書き直す時はテキストツールを使ってる。」
「それって、コードを全部手打ちするってこと?! 命令全部覚えてるの?」
「そりゃまあ、全部とは言わないけど、よく使う奴くらいはさ。」
「すっごい、さすが!」
 VRーOS上でのファイルは全部オブジェクトとして定義されてる。ExtremeJAVAの開発ツールでは、普通オブジェクトの形状を球とか多面体とか組み合わせて適当に作って、そこにプログラムのコードを貼りつけていく。
 命令は一覧から選べるし、実際コードを書くのはごく一部で結構なプログラミングができてしまうのだ。
 でも、0から自分で書くとなったら、形状の定義から衝突判定の定義、それぞれの機能まで全部自分で打ち込まなきゃいけないってこと。奈々にはとても想像がつかない。
「もし今プログラミングするとしたらどのくらいかかる?」
「パスワードクラッカーを?」
「そ。」
 奈々は簡単に説明する。
 パスワードファイルからIDとパスワードを読み出して、暗号を解除する。辞書ファイルからIDとパスワードを読み出して一方向関数で変換し、暗号解除されたパスワードファイルとつきあわせる。同じものがあればそれが正しいIDとパスワードというわけ。
「暗号化って、どんな形式?」
「IDEA方式。文字を置き換えてるだけだからすごく簡単。暗号化の鍵はドライブから拾ってこられるし。一方向関数は確かなんとかいうライブラリで変換かけてたと思ったから、それを使えばオッケー。どのくらいかかる?」
「うーん・・・・・・一時間ってとこかな。」
「一時間?! それじゃ三位にもひっかかんないよ!」
「会社だったら三時間っていうぜ。こっちは暗号のアルゴリズムも知らないんだし、初めて使うライブラリって、意外と些細なところでエラーが出たりして時間がかかるんだよ。」
「んー・・・・・・なるべく早くお願い。」
 譲はテキストエディタを立ち上げ、パスワードファイルと辞書ファイルを開いてみた。幸い、単純なCSV形式で格納されている。
 CSVは単語と単語の間をカンマで区切った文字ベースのファイルのこと。単語を読み出すのは要するにカンマとカンマの間の文字列を読んでいくだけだ。
 これならかなり簡単にプログラミングできる。
 譲はほっと息をつき、テキストエディタを立ち上げ、オブジェクトの外形をコーディングし始める。
 たちまち画面に球状のオブジェクトが浮かびあがるのを見て、奈々は息をのんだ。辞書ファイルとパスワードファイルを飲みこむ小さなふたつの口がつくまで、二十秒とかからない。
 外観ができると、譲はヘルパープログラムを呼び出して、IDEA暗号方式について質問した。
 奈々のヘルパーは天使の姿だったけれど、こちらは半透明のイルカの姿だ。オンラインのヘルプファイルを検索して、色々な質問に答えてくれる。
 ヘルプファイルの検索先は、譲が会員登録している百科事典会社のデータベース。コンピュータ技術に関することだけでなく、地図や外国語辞書など色々そろっているので、譲は結構重宝している。
 イルカが口からペーパーを吐き出した。
 ザッと見たところ、暗号のアルゴリズム自体はそれほど難しくない。一文字一文字が独立して暗号文字に変換されるようになっているから、照合にもさほどの時間はかからないだろう。
 譲がファイルを読んでいる隙に、奈々は暗号を解読する鍵を探してみる。もちろん、普通では見えないように隠されてるわけだけど、鍵がなきゃ基本ソフト自体にも解読できないので、どこかに隠しもっている筈だ。
 普通は確か、システムの隠しファイルで・・・・・・あった!
 譲が暗号の解読プログラムを書き始めた。
「暗号鍵はね、これ。」
 奈々が他の人に見えないようにパスワードを紙に書いて譲の方へ向ける。
 譲はちらっと顔をあげてうなずくけれど、手は止めない。当然ながら100%ブラインドタッチだ。
「パスワードファイルは?」
「それ。画面の右下の床におっこちてる。」
 パスワードファイルを表すオブジェクトをピックアップし、球の口へ放りこむ。
 一瞬間があった後、リストが吐き出された。一つ目の暗号はこれで解けたわけだ。
 奈々はリストに目を走らせる。
「十文字以下のIDとパスワードがありそう。総当たり検索してみて?」
「オーケー。」
「変換のライブラリはcryptoio.lib。」
 譲はcryptoio.libの中身を確認した。どうやら、文字列をメッセージとして渡し、オブジェクト間通信で返事を受け取るだけで使えそうだ。
 空いている通信ポートを確認し、通信セッション開始のコードを書く。
 指定された文字の長さであらゆる文字の組み合わせをcryptoio.libへ送り、戻ってきた文字がパスワードファイルのものと同じかどうか調べるループを作成。
 二文字から順にだんだん大きな文字列を長くしてループを呼出すルーチンを書く。
 ボールの形のオブジェクトに小さな箱とボタンをつけたし、プログラムと結びつける。
 完成!
 譲は文字列を箱に放り込んで息をついた。
 こんなに死にもの狂いでコーディングしたのはプログラムオリンピックの時以来だ。あの時も、時間勝負の予選があって、まばたきする間すら惜しんでコーディングした。
 感覚的には一時間以上たっているように感じる。けど、実際のところは?
 奈々が時計に目をやってガッツポーズをしてみせた。
「十五分。さっすが!」
 IDとパスワードが見つかるまでに、数分かかった。
 やがて箱の中から飛び出した答えは、
 ID:ALPHA
 PASSWORD:FINALCURTAIN
 「アルファ」、と奈々は口の中で繰り返す。なんか「オメガ」を思い出さない?
 ともあれ、IDとパスワードを変えてGateに再ログインする。
 メインルームの正面に、GATEと書いた扉が見えた。金の縁取りで装飾された豪華な扉。 
 緊張しながら中へと足を踏み入れる。
 扉の向こうには小さな部屋があり、真ん中に宝箱がおいてある。
 奈々は宝箱を開いた。
 中にあるのは、巻き物のような形をしたオブジェクト。
 上に封印がしてあって、なにやら文字が書かれている。
「This is the roll for you. Open the seal, and do what you
       shold do.
Devin Lucent.」
 デヴィン・ルーセント?!
 奈々は目を丸くする。
 あのフューチャテクノロジーの社長、天才的なハッカーが、これを書いたというのだろうか。もしそうなら、とんでもない値打ち物だ。
 デヴィンは五年前から行方が知れない。彼はここにいったい何を書き記したのだろう。
 ひょっとして、S/OSのソースプログラム? だとしたら、誰も知らないS/OSのセキュリティホールを発見して、認証局をハックすることだってできるかも。
 それともこの署名は、ハッカーの大好きなジョークにすぎないのだろうか。
「SEVEN! ID-CODE, SEVEN! Come up here!」
 舞台の上から誰かが怒鳴るのが聞こえた。
 会場の人たちがみんな視線を舞台の上に注いでいる。
「おい、奈々、呼んでるぜ。」
「え、あたし?!」
 奈々はあわてて階段をかけあがり、壇上へ立つ。
 痩せた小柄な若者が、立ち上がって一枚のディスクを渡してくれた。わっと会場が沸き立った。
「さ、サンキュー。」
 どうしていいかわからなくなり、奈々はどもりながら答える。
 そそくさと段から降りると、ディスクを渡してくれた青年が後から追いかけてきた。
 何がしきりに話しかけているが、奈々は焦って周りを見回すばかり。
 譲、助けてよっ!
 譲が隣から青年に何か話しかけた。二言、三言。それから奈々の方を向く。
「とうとう会えたぜ。こいつがサンダーだ。」
 奈々は思わず叫びだしそうになった。

 サンダーは童顔で、一見青年というよりは少年といった方が似合いそうな風貌だ。
 高校生ぐらいにも見えるけれど、きっと大学生。愛想よく笑いを浮かべていて、親しみやすい感じがする。
 サンダーは何か言い残して、壇上へ戻った。
「ねぇ、なんて言ってたの?」
「ステージの片付けやら色々あるから、七時に会場の入り口で会おうって。」
「へえぇ。」
 サンダーとまさかこんなところで会えるなんて思わなかった。
 キラーの友達だって聞いて、もうちょっと恐い感じの人かと思ってたけど。
「ねぇ、SEVEN! SEVENなの?」
 後ろから呼び声がし、奈々はふりかえった。
 人垣をかきわけてやってきたのは、銀色のおかっぱをした女の子だ。最近流行りのエッジをたてた表面加工がされていて、髪が流れるたびピンクや青や緑に輝く。
「もしかして・・・・・・プリティ・アックス? わぁ、うれしい!」
 バーチャルスペースでは見上げるような大女だけれど、実際見てみると奈々より小柄なくらい。
 虹色に光るタイトなワンピースに身を包んでいる。
「良かったぁ。もう会えないかと思った。」
「私も。そしたら、受賞してるのがバーチャルスペースそっくりの女の子じゃない。びっくりしちゃった。」
 プリティ・アックスは素早く笑みをひらめかせて奈々から離れ、譲を見上げた。
「JOHってこちら?」
「ああ。今日はよろしく。」
「こちらこそよろしく。SEVENから話は聞いてる。」
 譲は差し出された手を握る。
「SEVEN、さっきサンダーと話してた?」
「うん。七時過ぎにこっちへくるって。」
「じゃあその前に、会場、案内してあげようか。何が見たい?」
「何があるの?」
「さっきざっと見たけど、目玉はレインボーチップの最新版。向こうにいくつか木馬とジョークソフトもあったけど。ディスクも売ってるわよ。」
「レインボーチップのデモってやってる? 見てみたいな。」
「オーケー。こっちに来て。」
 プリティ・アックスは人ごみをかき分け、慣れた調子で廊下の奥へと案内した。
 虹色の文字のパネルが天井からぶらさげられたブースには、パソコンが二台。
 二台の端末の画面が壁に投影されている。
 譲はパネルの説明を読もうとしたが、人だかりでよく見えない。
「レインボーチップってどんなものなんだ?」
「レインボーボックスって聞いたことある?」
 プリティ・アックスが手で箱の形を示す。
「もともとは電話マニア(フリーク)が使ってた電気回路入りの箱で、電話のただがけとか三者通話とかができるものだったの。で、これはそれのネットワーク版。」
「つまり、ただでWWVSサーバに接続できる? 裏口を使って?」
「そんなようなもの。簡単にいえばハッキングツールの玉手箱。」
 奈々は、誰かが置いたグラスをすばやく奪いとり、頭にかぶった。
 赤とオレンジの目がくらむような仮想部屋(マイ・ルーム)が浮かびあがる。
 部屋の中央に虹色の箱がふたつ。レバーやノブがいっぱいついていて、びっくり箱みたいだ。
 螺旋状のバネみたいなポリゴンが近づいてきた。別の参加者だろう。
 バネが箱のノブに触れたとたん、いきなり箱のてっぺんがパカリと開き、細長いロケットが天井をつきぬけて飛んでいく。
 ちょっと間があって、箱の上に扉が出現した。
 Wow,great、と辺りからざわめき。
 ロケットのスパイが隣のマシンに潜入して、扉を開いたのだ。
「プログラムがふたつあるように見えるけど。」
 投影された画面を眺めていた譲がつぶやいた。
「VR―OS用とOra―OS用だって。S/OS用は今開発中。」
 そう答えたのはもちろんプリティ・アックス。事情通だから、ライン・マスターズの目玉商品など、当然事前チェック済なのだ。
「開発したのは誰?」
「トレイラーっていうハッカーチーム。でも実は、」
 プリティ・アックスが少し声を落としてつけ加える。
「Omegaも一枚かんでるって噂がある・・・・・・。」
「オメガ?」
「オメガは自分達ではVSサイトを持ってない、謎の集団でしょ。だから、ツールを発表するには他のハッカーグループの名前を借りる必要がある。トレイラーの構成メンバから考えると、自分達でああいうセンスのツールを作るって考えにくいもの。」
 譲は少し考える。
 彼女の言ったことが本当だとすると、オメガからハッカーグループに接触があったことになる。ならばオメガの正体を知っている者もいるのだろうか。
 こちらからオメガにコンタクトすることは可能なのだろうか。
「あ、やだ。もうすぐ時間じゃない?」
 グラスをつけたまま、奈々が声をあげた。
「サンダー、どこで待ってるって言ってたっけ?」
「入り口の辺り。そろそろ行った方がいいかもな。」
 入り口に行ってまもなく、サンダーがやってきた。
「ごめん。待たせた?」
 三人を眺め、日本流にお辞儀してみせる。
「MADMANから日本の凄腕ハッカーが会いたがってるって聞いてたけ
どさ。まさかコンテストに参加してるとはビックリしたよ。」
 プリティ・アックスに訳してもらって奈々は照れ笑いした。
「そんな、たいした腕じゃないよ。」
「いや、でもさっきも優勝だろ。たいしたもんだよ。」
「あれはね、あたしだけの力じゃないし・・・・・・」
 奈々がちらりと譲をふりかえる。
「ええと、あなたは?」
「藤田 譲。SEVENの友達。」
「ユズル? ネット上のIDは?」
「俺はSEVENみたいな有名人じゃないよ。それより・・・・・・」
「ああ、キラーの話を聞きたいんだっけね。どこか腰かけようか。」
 サンダーがホテルロビーのテーブルへ案内する。
 休んでいる人たちもちらほらいたけれど、ボードの裏側に寄せられたテーブルはちょうど死角になっていて誰もいない。
 ソファに腰をおちつけて、サンダーが話しはじめ、プリティ・アックスが間を縫って通訳しはじめた。


「あいつがいなくなって、もう一年がたつかな。なんだか不思議な気がするよ。
 めちゃくちゃ頭のきれる奴でさ。俺はすごく尊敬してた。まだ俺がひよっこだった頃、ハッキングのいろはを教えてくれたのもあいつさ。

 キラーはちょっとシニカルな奴で、よくクールないたずらをやってた。FBIのサイトの看板を
Fuckin' Budy's Insecured Site(くそったれの無防備サイト)に変えちまったり、政治家が愛人とやりとりしてるデータを、支援事務所に送りつけたりとか。お陰でFBIに睨まれちゃって、三度も逮捕されて。
 本当のところ、単なるいたずらでたいしたことじゃないんだ。実際何かを壊したわけじゃないしね。
 でもプライドを傷つけられると、政府とか警察ってのはなんとか理由をこじつけて逮捕しようとするんだよな。

 あいつ、根はすごく真面目な奴で、物事をなんでもシリアスにとらえるたちでさ。世界の平和とか、本当の愛とはなにかとか、難しいことでよく悩んでたよ。ボランティア活動なんかにも積極的に参加してたんだぜ。

 ある時つきあってた彼女が浮気してるのが分かった。結局別れることになっちゃったんだけど、なんとその彼女はFBIに奴の居場所をチクったんだ。
 その時はなんとか逃げおおせたけど、それから人が信用できなくなったって言ってた。
 多分、本気で彼女を愛してたんだよ。

 いなくなる一ヶ月くらい前はすごく苛々しててさ、一人で部屋に閉じこもって、なんかぶつぶつ言ってた。
 失踪の四日前くらいからは、なにか悩んでるみたいだった。ヘッドセットをかぶったままさ、操作もしないでぼーっとしてたりするんだ。話しかけても返事もないし。
 でも、いなくなった時はびっくりしたよ。まさかあんなことになるなんてね。

 しばらくしてから、メールがきた。Omega.comってとこから。
 中身? 心配かけて悪かった、俺はまだ生きてる。ようやく生きがいを見つけ出したみたいだ、そんな感じ。
 でも本人からかどうか確認はできなかったし、返信しても戻ってくる。誰かのいたずらかもしれないなって思いながら、捨てられずにいたんだ。

 ところがさ、この集会、LineMastersの主催者に、またOmega.comからメールが届いたんだ。大会の日、Gateってサーバへ最初にたどり着いた奴にビッグ・プレゼントがあるって。
 こっちは大至急回線を用意したり、てんやわんやさ。まあ、おかげで集会も盛りあがったし、SEVENにも会えてよかったんだけどね。」

 サンダーの話を聞き終わった奈々はため息をついた。
 Killerの気持ちがなんとなく分かる気がする。
 信じてる人に裏切られるほど、辛いことってない。あたしには譲がいたし、舞もいた。それでなんとか立ち直れたんだ。
 だけどKillerの見つけた『生きがい』ってなんだろう。
 もし生きてるんだとしたら、なんで表、いや裏の世界に現れないんだろう。
「それで、そっちの捕獲したワームってのは?」
 サンダーが現実の話に引き戻した。
「こいつだよ。」
 サンダーは、譲の端末を覗きこんでソースを目で追いかける。
「どう思う?」
「俺はプログラムにはあまり詳しくないけど、つまり情報を集めてくるソフトだよね?」
「ああ。色々なサーバを点々として、最終的にはOmega.comってところからのアクセスで情報が引き出されてる。」
「Omega.comに接続してみた?」
「いいや、そっちは?」
「それがおかしなところでね。」
 サンダーは顔をしかめる。
「今回のファイル転送の時にこっちからトレースかけて逆ハックしようとしたんだ。でもできなかった。信号を送ってもまるで返ってこないし、一度だけつながりかかったけど、見たこともないメッセージが表示された。」
「Omega.comは、認証局に登録されてるんだろう?」
 認証局に申請を出す時には名義やサーバの設置場所が必要になってくる。所在地も割り出せる筈だ。
 サンダーはうなずく。
「名義はOmegaコーポレーションって会社だったよ。コンピュータとかネットワーク機器を販売してるごく普通の会社さ。もちろんそこに、KillerなんてIDの社員はいない。」
「発信の時だけ、勝手に人のドメインを借りてるってことかな。」
「そうかもね。それか、Omegaの社内に首謀者がいるのかも。」
「そういえば、パソコンの配達元は?」
 奈々が思いついたように身を乗り出した。
「配送データを調べれば、差出人が分かるんじゃない。」
「正直言うと、運送業者のネットもちょっと探ってみたんだけどさ、情報はなし。消されてた。」
 奈々はなんとなく薄ら寒くなって身震いした。
 これだけたくさんのハッカーの注目を引いておいてなんの痕跡も残さない。
 そんなことってできるんだろうか。
「そういえば、SEVEN、さっきの巻物開けてみたら?」
 ずっと通訳に徹していたプリティ・アックスが口を開いた。
 サンダーが身を乗りだし、
「実は俺もそれ、すごく興味がある。よかったら俺にも見せてくれないかな。」
「いいけど、これって安全だって保障はあるの?」
 奈々は眉をひそめた。
 開けてびっくり、とたんにマシンごと壊れてしまうってことだって考えられるのだ。譲のパソコンを使うわけにはいかないし、できればネットに接続されていない機械のほうがいい。
「俺のマシンを貸すよ。近くのホテルに部屋とってるんだ。一緒に来ない?」
「そうね。みんなと一緒なら。」
 プリティ・アックスが奈々達を振りかえる。
「SEVEN、あんたは?」
「そろそろ帰ったほうがいいんじゃないのか?」
 譲が眉をひそめた。
 いくら昔より教師がルーズだからといって、いつまでも気づかないとは思えない。
「えー、まだ大丈夫だよ。」
 奈々は頬をふくらました。
 時間はすでに午後八時五分前。
 正直そろそろクリティカルな気もするけど、こんな滅多にない機会を逃すわけにはいかない。
「譲も来るでしょ?」
「まあ俺は構わないけど・・・・・・」
「あたしならだいじょぶだってば。迷惑はかけないから。ねっ?」
 譲はあきらめて息をついた。
 実のところ、サンダーともう少し話してみたいという気もしないでもない。こういう連中がどういう風にものを考えているのか、興味がある。
「O.K.ついてきなよ。」
 サンダーがにっこり笑って立ち上がった。

 サンダーが案内した部屋には、すでに何人か先客がいた。
 ベッドに寝転がってテレビを見ている者、窓際に腰かけて電話ごしに爆笑している者、ベッドの上でパソコンを囲んでいるグループもいる。
「よぉ。サンダー。」
 ベッドに寝そべってディスプレイをのぞきこんでいた青年が顔をあげ、
「そいつら、誰?」
「ああ・・・・・・待って、紹介する。こっちがブラッド。」
「よろしくな。」
 ひょろっとした青年が立ち上がり、手を差し出す。
「君たちはどこからきたの? 中国人(チャイニーズ)?」
日本人(ジャパニーズ)だ。俺のIDはJOH。こっちがSEVENにプリティ・アックス。」
「My woman from Tokyo! Hey!」
 隣の太った若者が調子っ外れの歌をがなりたてた。
「よろしくなジャパニーズガール。俺様はキング・オブ・クレムリン。パスワード破り(クラック)のキングだ。」
 ブラッドがキングの肩を抱き、
「デブの王様って感じだろ?」
「黙れこのモヤシ野郎!」
 あまりのにぎやかさに、訳が分からないまま奈々も笑ってしまう。
「SEVENって聞いたことあるぜ!」
 TVを見ていた若者が顔をのぞかせた。
「日本の政府サイトを破ったやつだろ。こないだ捕まったって聞いたけど、無事だったんだ?」
 プリティ・アックスに説明してもらって、奈々は赤面する。
 知ってるんだ。みんな。
 そりゃそうだろう。
 FREE SEVENって合言葉がネットに出回ってたわけだから、日本の中だけで済まされるわけがない。
「ホントは入るつもりなかったのよ。普段ならあんな痕跡残さないんだけど・・・・・・」
「何言ってんだよ。勲章だぜ、勲章。政府の連中に泡ふかせてやったんだからさ。」
「次はFBIをクラックしようぜ。」
 キングが口をはさむ。
「やつら、俺の電話を盗聴してやがったんだ。俺たちがちょっとでも盗聴したらここぞとばかり牢屋にぶちこむのにな。仕事で人のプライベートをのぞいてにやにやしてやがんだぜ。」
「ケッ。FBIのサイトなんか入れるもんか。」
 ブラッドが自嘲気味に鼻をならす。
「こいつが役にたつかもしれない。」
 サンダーが悪戯っぽく笑い、ノートタイプのマシンを持ってきた。
 譲のパソコンと接続し、巻物をコピーする。
「なんだよ、それ?」
「オメガからの贈り物。デヴィン・ルーセントの秘蔵Tips集。」
「まじ?!」
「マジかどうかは見てのお楽しみ。カギは?」
 奈々は文字列を読み上げた。
 回りのみんなが聞きつけて集まってきた。
 サンダーがすばやく文字をうちこみ、巻物のオブジェクトへ重ね合わせる。
 巻物が開かれ、出てきたのはセピア調に加工された一枚の写真だ。
 メガネをかけたスーツ姿青年がカメラ目線でさわやかに笑いかけている。
「誰だ、これ?」
「バカ、デヴィン・ルーセントだよ。見たことないのか?」
 サンダーは呆れた顔をしたが、キングは恥ずかしがる様子もない。
「忘れたよ、そんな昔のこと。で、プレゼントって? まさかこれで終わりじゃないだろうな。」
「なんか、この写真変よ。」
 奈々がつぶやく。どうしてだろう。なんとなく・・・・・・
「ジョークにしちゃ寒すぎだよな。いや、たぶん・・・・・・」
 サンダーは写真をポイントしてファイルサイズを調べてみる。
 103(メガ)。どう考えてもサイズが大きすぎる。
「えーと、誰か分割ソフト持ってる?」
 サンダーがまわりを見渡し、ブラッドが立ち上がって自分のパームトップをとってきた。
 接続してファイルを送りこむ。
 画面に現れたまな板に写真を乗せると、隣の包丁が飛び上がり、まっぷたつに写真を切り裂いた。
 中から飛び出したのは虹色の箱が二つ。
「・・・・・・なんだよこれ?」
 呆気にとられている譲に奈々が説明した。
「画像ファイルって、ファイルの後ろにデータをくっつけても画面に表示されないでしょ? だから画像ファイルに別のファイルを隠したりするの、アングラ系では常套手段なわけ。」
「へえ。で、あのオブジェクトは・・・・・・」
「レインボーチップ?」
 奈々がプリティ・アックスをふりかえって尋ねる。
「そうみたいね。」
 プリティ・アックスが肩をすくめた。
 トレイラーのバックにオメガがついているという噂は本当だったのだ。
 だけど、だとしたら出展されていたのとどこが違うのか。集会で公式に展示しているものを、わざわざ商品として送りつけてくる筈はない。
 サンダーがソフトの属性(プロパティ)を確認した。
「バージョン4 β版。最新版だ。LineMastersの公開版より新しいぜ。」
「なんだ。それだけ?」
「それ、俺にもコピーしてよ。」
「オーケー。この際、ディスクに焼いちゃおう。」
 サンダーは10連装のディスクメーカに媒体を放り込む。
「これでよし、と。少し時間かかるから、その間になんか食いに行く?」
 サンダーの案内で、奈々達はホテルから四、五分歩いたファーストフードに足を運ぶことになった。
 食べ物は昼間と似たようなものだ。ピザにビール、酒入りコーク。
 注文が終わるとサンダーがみんなを紹介してくれる。
「このいかついのががデッドマスク、本名テッド。右に向かってアンサインド・イント、ブラッド、キング・オブ・クレムリン。向こうの女の子がローラ。隣の背の高いのが彼氏のブラック・マジシャンとスパイダー。」
 物騒なIDネームとは裏腹にみんなの態度は開けっぴろげでフレンドリーだ。
 悪戯好きのティーンエイジャー、頭はいいが子どもっぽさの抜けない大学生、そんな感じ。
 譲はどうして彼らがハッキングするのか聞いてみたくなる。
 質問を口にすると、テッドが怪訝な顔で問い返した。
「ハッキングの動機? あんたはハッカーじゃないの?」
 少々不信がかった表情になり、
「あんた、ジャーナリストかなんか? セキュリティの専門家?」
「違う。プログラマだ。」
 元、かな。と譲は思い、ちょっと苦笑する。
「ちょっと待てよ、ユズル・フジタってあのフジタ?」
 ブラッドが興奮した調子で割り込んだ。
「プログラムオリンピックで優勝したんだろ。神経ネットワークを応用したプログラミングを発表してたよね。」
「よく知ってるな。」
「すげぇ。サインしてくれよ。」
 ブラッドがTシャツの腹を差す。
 黒いTシャツのその腹にはでかでかと白い髑髏マークが印字され、ニカッと笑みを浮かべている。
「サインなんて大層なものする柄じゃない。だいいち、昔の話だよ。」
 譲が困惑ぎみに答えたが、ブラッドはサインペンを手渡した。
「あんたのファンなんだ。エクセレント・アイディアも持ってるぜ。」
「EIを? アメリカではまだ一般リリースしてなかったと思ったけど・・・・・・」
「ところがどっこい、裏の世界じゃとっくに出回ってるってわけ。」
 ブラッドがウィンクし、プリティ・アックスがささやいた。
「そうね、一、二週間前から出回ってる。試供品のクラック版じゃないかしら。」
「海賊版ってこと?」
「まあ、そんなとこ。」
 譲は呆れかえった。
 製作者を目の前にして海賊版を使っていると公言するとは、無神経だの図太いだのいうより、感覚が別のものとしか思えない。
「罪悪感はないの?」
 サインしながら何気なく尋ねると、ブラッドは肩をすくめた。
「学生に買える値段だと思う? 二〇〇〇ドルもするんだぜ。二〇〇ドルならまあ考えてもいいけどさ。」
「企業でもなきゃ買えないよ。どうせ、俺達なんか客と思ってないんだろ。」
 アンサインド・イントが腹立たしげにつぶやく。
「はなから目にないんだ。本当に良さが分かるのは俺達なのにね。」
「聖書を読んだことある?」
 髑髏Tシャツ姿のブラッドがだしぬけに尋ねる。
「数人分しかない食べ物を、イエスが大勢の人に分けるシーンがあるんだ。パン5斤と魚2匹。それがなんとまあ、五千人に行き渡るんだぜ! これは奇跡の話だ。でも、ソフトってこれと同じじゃないか? 現代の奇跡さ。いくらでも増やせる、万人に分け与えられる。みんなが恩恵に預かれるはずなのに、一部の金持ちだけが独占するなんて間違ってるよ。」
「だけど、俺達プログラマはそれで食ってるんだぜ。もしソフトが自由にコピーできて買う人がいなくなったら、俺は食べていけなくなる。」
「それにしても二〇〇〇ドルは高すぎる。そう思うだろ?」
「確かにね。でも金を払わない人間がいればますますソフトは高くなるじゃないか。」
「高いのはそのせいじゃない。間に無駄な人間がいっぱいいるからだよ。もし俺が二〇〇〇ドル払ったとしたらその金はどこに行く? おたくの懐に行くのはそのうち十ドルかそこらだろ。」
 今や0だ。
 譲は心につぶやく。
 今後何万本売れようが、譲のところに一銭足りとも転がりこんでくることはありえない。
「悪ぃ、実は俺もEI使ってるんだけどさ。<あんたに>なら喜んで払うよ。なんだったら、今日の食事は俺がおごろうか?」
 アンサインド・イントが自分で言って大笑いした。
「サインくれたら、2食分おごってもいい。」
「俺のサインなんかもらってもTシャツが汚れるだけだよ。」
「いいんだよ。漢字ってクールだし、なんたって最高のハッカーのサインだしね。」
「俺が?」
「あんたみたいのを本当のハッカーっていうんだよ。」
 ブラッドがまたウィンクをよこす。
「まあコンピュータマニアって意味ならハッカーかもしれないけど、政府サイトに侵入なんて俺はやらないし、できないよ。」
 一人では、と譲は心の中でつぶやく。
 あの時も今日も、奈々が何をやらかしたのかさえ分からなかった。
 もっとも、パスワードクラッカーを作ったのは俺のほうか。やれやれ、こんなところまできてクラッキングソフトを作らされるとは思ってもみなかった。
「政府のシステムなんか俺だってハックしないさ。奴ら、プライドを傷つけられるとうるさいからね。」
 とテッド。
 キングが憤慨したように後を続ける。
「アメリカの役人だの軍人だのは執念深いんだ。蛇みたいでさ。どんなに逃げたっておっかけてくるし、一度つかまえようと思ったら犯罪をでっちあげるのなんて平気なんだぜ。俺のダチなんかパスワードクラッカーとウイルスソフトをハードディスクに入れてたってだけで捕まえられた。ウイルスなんか一度もばらまいたことないのに、『もし使われてたら』甚大な被害が出ただろうってさ。『知る権利』は誰にでもある筈だ、そうだろ?」
「アメリカじゃ、でっかい組織の奴らだけがでかい顔をしてる。暗号化アルゴリズムまで政府が権利をつかんでる。好きな時に盗聴できるようにね。」
 通訳されたサンダーの言葉を聞いて、奈々は身を乗り出す。
「アメリカだけじゃないわよ。あたしなんか犯罪でっちあげられてネットワークの使用禁止。コンピュータは没収中。」
「個人ってのは、どこにいても虐げられる運命にあるのさ。」
 キングがもったいぶって言い、笑いを誘った。
「まあ、せっかくのパーティなんだから。むかつく話はなしにして、SEVENの冒険談でも聞かせてくれよ。ほら、うまそうなピザもきたし。魚とパインのサンフランシスコ風だよ。」
 サンダーが奈々の肩を叩いて店の奥を差す。ローラーブレードの上で長い脚を誇示しながら、ウェイトレスがこちらへ滑ってくるところだ。
 その後ろを、白い不精髭をはやした男が通りかかった。
 腕が少し変な風に曲がっていて、鼻はひしゃげ、頬の辺りに傷痕がある。
 サンダーが何か声をかけた。男は軽くうなずき、カウンターへと向かう。
「だれ、あの人?」
「キャプテンD。」
 サンダーの言葉に奈々は息を呑む。
 十年くらい前に画像・音声通信のハッキングで鳴らした伝説的なハッカーだ。
 まだ生きていたなんて知らなかった。それに、あんな恐ろしげなカッコをしてたなんて・・・・・・
「七年前に捕まってさ。五年もムショで暮らしてたんだ。強盗やレイプ犯、殺人犯と一緒にだぜ。今じゃすっかりやつれはててあんなだよ。ちっちゃな地域接続業者(ローカル・プロバイダ)で働いてるとか言ってた。」
 奈々は身震いした。
 五年間! 五年間も殺人犯と一緒の牢獄で暮らすなんて!
 でも、あたしだってそうなってたかもしれないのだ。もしあたしが未成年じゃなかったら。大人だったら。
 ここにいるみんなだって、いつそうなるか分からない・・・・・・
 運ばれてきたピザは思ったよりも美味しかった。
 飲んで食べて雑談して。そんなことをしているうちに時間はあっという間に過ぎていく。
 八時を回ったころ、譲が声をかけた。
「俺達もそろそろ帰った方がいいんじゃないの?」
 修学旅行中の高校生に対しては至極もっともな台詞だったが、話が乗ってきたところだった奈々はぷうと口をふくらませる。
「譲のイジワルっ。そんなこというと、今晩部屋まで押しかけちゃうから。」
「こら。これ以上無茶するんなら学校に連絡するぜ。」
「じゃ、あと三十分だけつきあって。行きたいとこがあるんだ。」
「どこ?」
「ゴールデン・ゲートブリッジ。夜景がすごくきれいなんだって。」
「オーケー。それを見たら帰るぞ。」
「うんっ。」
 店を出て、二人はタクシーを拾った。
 坂の上から見下ろす街の夜景は息を呑むような美しさだ。
 立ち並ぶビルの窓が黄金に輝き、藍色の海へぼんやりとした光を投げかけている。
 濃紺の空に、ぽつりぽつりと星が見える。
 奈々は車の窓に顔を押しつける。
 ビルの明かりがひとつ消えた。ようやく一日の仕事が終わったのだろうか。
 通りの店の大部分はもう暗くなっている。レストランやバーは、まだまだこれからといったところ。
 この街の人たちは、ここで生活しているんだ。
 と奈々は思う。
 ここで働いて、学校に通って、楽しんだりうんざりしたり喜んだり哀しんだりしながら生きている。観光客が出入りして、街に活気を生み落としていく。
 ここでは、人の流れがとだえることはない。
 海の近くでタクシーから降りる。
 ライトアップされたベイブリッジが、華麗な姿を水面にさらしている。
 暗い海の向こうから、やわらかな風が潮の香りを送ってくる。
「あたし、ここに来てよかった。」
 奈々はぽつりとつぶやいた。
「修学旅行なんてくだらないって思ってたんだ。クラスの子たちははしゃいでたけど、あたしはみんなでぞろぞろ行くのって、好きじゃない。馬鹿みたいって思ってた。LineMastersがあるって知るまでは、さぼっちゃおうかなぁ、なんて。でもね、ここにはここの生活があって、空気があって、日本語を話さない人達が生活してる。日本じゃ感じられない、バーチャルでも絶対分からない空気がある。こういうのって、いいよね。」
「・・・・・・だな。」
 譲は海の向こうを見つめる。
 日本にもこんな夜景があっただろうか。あった筈だ。
 ベイブリッジ。学生の頃、詩織と出かけたっけ。
 会社に入ってからは、まともに夜景を眺めたこともない。
「ありがとぉーっ!」
 隣にいた奈々が海に向かって大声で叫んだ。
 相変わらずの唐突な行動に、慣れたきた筈の譲も少々面食らう。
「誰にお礼を言ったの?」
「分かんない。みんなに。運命にかな。今日すっごく楽しかった。プリティ・アックスもサンダーも、LineMastersに来てたハッカー達みんな、ホントに親切にしてくれて。今日はもう最高! 言うことなしって感じ。」
 奈々は満足げに伸びをした。
 それから少々不安げに、譲の顔をのぞきこむ。
「譲は?」
「・・・・・・楽しいよ。」
 そりゃ楽しいさ。
 あんたみたいに無茶苦茶な女の子と旅してるんだから。
「良かったな、誕生日にいい思い出ができて。」
 奈々は無言だ。
 海岸沿いに二、三歩歩いた後、いきなり立ち止まった。
「ごめん、ホントはね、誕生日、今日じゃないんだ。」
 譲は一瞬返答に窮した。
 実をいえば、それほど驚いたわけでも腹がたったわけでもない。なんとなく、そんな気もしていたのだ。
 けれど、それを口にしたら奈々は傷つくだろう。自分でだましておいておかしな話だが、そういう子だ。
「誕生日ね、7月7日だったの。でも今年は、捕まったりとか色々あっ
たしさ・・・・・・誰も祝ってなんかくれないし、さみしくて・・・・・・」
 これも口先のテクニックなのか、それとも本音なのか。譲には判別がつきかねる。
「まあ別にいいよ。奈々がアメリカに来られなかったら、なんか土産でも買っていこうと思ってたし。」
「あたし、これずっとはめてるから。一生の宝物にするから。」
 奈々が左手をあげてみせた。
 赤い小石が、中指でキラリと光る。
「別にいいって。たいしたモンじゃないし・・・・・・」
「良くないよ!」
 奈々が怒ったように言った。
「あたしがだましたと思ってるでしょ。ね、ちゃんとこっち見てよ。たいしたモンじゃないなんて思ってないよ。」
 譲は夜景から奈々へ顔を移した。
 真摯なまなざしとまともに視線があってしまい、思わず言葉を失う。
 一瞬、何かが二人の間を流れた気がした。
 社会人になってからもうずっと味わったことのない微妙な空気。
 男と女の間にだけ生まれる間合い。
 夜だからだ、と譲は自分に言い聞かせる。
 朝になれば魔法は消える。
「・・・・・・もう帰ろうぜ。」
 譲は背を向けて歩きだした。
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