Project Seven

presented by PSY

■第八話・決心■


「いやぁ、助かりますよ、ホント。」
 山下課長はもみてせんばかりの様子で言った。
「うちの開発部はまだ立ち上げたばっかりでねぇ。くわしい人が誰もいないもんだから。スペシャリストが来てくれるとありがたい。こっちが事務所です。」
 扉を開けると、コンピュータルームが姿を現した。
「ちょっと汚いんですけどね。どうです?」
 譲は辺りを見回した。
 三列の通路に沿ってデスクトップマシンがずらりと並んでいる。二段に積み上げられているため、少し息苦しい感じだが、通路の奥には大きな窓があって結構明るい。ただし向かいにはすぐビルの壁が見え、景色といってもはるか下の道路を見下ろすぐらいしかできない。
 マシンの半分以上には、蛇のようなコードがいっぱい絡みついている。残りは、恐らく赤外線や電波でネットワークにつないでいるのだろう。どちらにも、マシンを固定するワイアはついていないようだ。
 地震が来たら即死。ぞっとしない。
「つい最近、急ごしらえで作ったんですけどね。どうですか?」
「マシンが壁にとりつけられてないですね。モニタと本体だけでも、ワイアをつけておいた方がいい。」
 いいかけて、譲は相手の失望の色に気づいた。多分マシンスペックへの賞賛なり批判なりを期待していたのだ。会社の規模に比してかなり奮発したのは理解できる。
 譲は話の切り口をきりかえた。
「かなり新しいマシンが入ってますね。今月リリースされたものもある。」
「この部署を立ち上げる時に、なんとか予算をひねりだしてもらってね。絶対に必要だから、その分稼ぐんだからって最新機種をそろえたわけですよ。ま、他からのお下がりもありますが・・・・・・」
「古いマシンも動作確認する上では必要です。そういう意味では、ここは色々な機種が入っていて検証に適していると思いますよ。」
 譲のほめ言葉に山下課長はにっこりした。
「マシンは一台専用のものを支給しますが、他のも好きに使ってください。それと、サーバの管理もお願いしたいんですが。」
 譲は内心ため息をつく。
 この調子だと、コンピュータ関連の雑用は全部譲にまわってきそうだ。社長の面接では、神経回路(ニューラルネット)の概念を応用した新製品の開発を手伝ってほしいと言ってなかったか?
 まあ、経営陣と現場では思惑が違うことも少なくない。
「じゃあ見学はこのぐらいにして、具体的な仕事の内容をお話ししましょうか。」
「せっかくだから奥の部屋も見てもらったらどうですか、課長?」
 窓際近くでデスクトップの上にかがみ込んでいた担当者が顔をあげた。
 胸のプレートに吉田とある。
「そうだ、そうだな。案内してくれよ、吉田君。」
「よろしくお願いします、吉田といいます。」
 彼が軽く頭をさげた。
 ひょろりと痩せた背格好で、細い銀縁の眼鏡をかけている。
 少し顔を上向きにしてしゃべるせいか、なんとなく人を見下したような印象を与える。
「ディープ・ドリームのデモ機があるんですよ。ご覧になったこと、あります?」
 歩きながら、男が早口に尋ねた。
「ディープ・ドリーム?」
「あれ、藤田さんでもご存知ないことがあるんですね。」
 吉田は少し意地悪い笑いを浮かべた。
 こういう手合いはどこにでもいるものだ。聞きかじりの知識で他人を試し、なんとか精神的優位を保とうとする連中。その実、知識自体はたいしてなかったりするから、腹をたてるだけ損である。
 譲は軽くうなずくにとどめた。
 山下課長が変わって説明する。
「インターコミュニケーション社の研究所で開発中の画期的なVR(バーチャル・リアリティ)システムなんですが、デモ機を借りてましてね。面白い機械ですよ。」
「これです。」
 吉田がオフィスの奥の扉を大きく開け放った。
 真ん中にベッドがある。隣に、ディスプレイと、冷蔵庫ほどもある大型のコンピュータ。
 ベッドの上には見たことのない形のヘッドセットが固定されており、細いケーブルでコンピュータと接続されている。
「試してごらんになります?」
 課長に薦められて、譲はベッドの上に横になった。
 吉田が機材をセットすると、首筋にチクリとかすかな痛みが走った。
 手足が固定されているので、拘束衣を着せられているような気分になってくる。
「目を閉じてください。」
 目の前が暗くなると同時に、別の風景が浮かびあがってきた。
 このオフィスの入り口だ。
 山下課長がなにかしゃべりながら、扉を押し開けている。視点はビルの中へ移動する。
 なんだ?
 譲は内心首をかしげた。
 バーチャル・ワールドの景色なら嫌というほど見ている。実写を取り込んだものも見たことがある。けれど、この景色はどこかが明らかに変だ。
 辺りを注意深く見回してみた。
 壁に見覚えのある傷痕が見える。このビルに入った時気づいた傷だ。多分荷物を運びこむ際にでも傷つけたのだろう。
 壁の表面は細かな皺のよったでこぼこした素材で、傷の周囲は壁紙がはがれて、ささくれだっている。
 細部は驚くほど鮮明で細かいが、前のシーンとのつながりがない。自分の視点はどうなっているのだろう。
 今俺はどこにいる?
 このビルの入り口の廊下の辺り、そう思える。課長の後についてエレベータに乗り込むところだ。
 まわりの物体の配置は明らかなのに、ひとつひとつに目を向けようとすると急にぼやけてしまう。それでいて一部の、たとえば前を歩く課長のエリが半分たっているあたり、妙にはっきり見える。
 これはまるでーそう、夢みたいだ。
「面白いでしょう?」
 突然、声が聞こえて目の前が明るくなった。
 吉田が自分の頭からヘッドセットを外そうとしているところだ。
 隣から課長がのぞきこんだ。
「何が見えました?」
「このビルの入り口ですね? ただ、なにか妙で・・・・・・どうなってるんです?」
「脳の内部に電気的な刺激を与えて記憶を再生しているんです。昔は頭蓋骨を開いて電極を差し込まなければできなかった。それを最近は電磁気的な渦で、電気の発生を促すことができるようになったわけです。ま、詳しいことは私もよく分からないんですがね。」
 山下課長が照れたように笑った。
 つまり人に夢を見せられる機械、と。
「映像や音を、視神経や聴覚神経を通じて送りこむこともできます。逆に筋肉への指令を読みとって、前進・後退や体の動作をオブジェクトに反映させることもできる。今までのVRのように不自然な三次元映像で酔うこともない。視聴覚障害者にも映像を見せたり音を聴かせたりできるわけです。」
 譲は説明を聞きながら、その可能性の大きさに驚く。
 実用化されれば、あらゆる分野のソフトメーカが飛びついてくるだろう。
 精神治療、犯罪捜査、エンタテイメント。応用は限りない。
 恐ろしい時代になったものだ。
 ただでさえネット中毒者が年々増加しているというのに、『本当に』現実と想像の区別がつかなくなる可能性はないだろうか。偽の記憶が植えつけられる危険性は?
「まぁ、現状では当分無理でしょうけどね。」
 譲がそのことに触れると、吉田が言った。
「人間の脳のどこに何が記憶されているのかは人によってまるで違うわけでしょ。この機械は記憶を再生させることはできても、読み取ることはできない。今、あなたはビルの入り口の映像を見たといったけれど、それが電車の中の映像か、昔通った小学校の映像か、外からでは分からない。現状の目標は、いかにしてのぞんでいるのに近い記憶を呼びさませるか。それができたら、次は不完全なコンピュータの映像をどうやって人間の記憶に補わせるかということでしょうね。」
 あまりにそっけないと思ったのだろうか。山下課長が言い添える。
「何しろまだ研究段階でして、今すぐお金になるようなものではないわけですよ。ただ、我々としてはアンテナを広く張って、次のビジネスを考えておかないとね。で、こうしてデモ機を用意してあるわけです。」
「具体的にはこの部署では、どんな仕事をされているんですか?」
「それはこれからご説明しましょう。向こうに応接室がありますので。どうぞこちらです。」
 山下が立ち上がり、譲は後をついて部屋を出た。
 扉を出たところでふと立ち止まって、大仰な装置をふりかえる。
「どうかしましたか?」
「五年後、いや三年後には全ての家庭でディープ・ドリームが使われる時代がくるのかもしれませんね。」
 譲はそうコメントした。

 呼び出し音が鳴った。
 譲はキーを叩いていた手をとめ、電話に応答する。
「はい、開発部藤田ですが。」
「譲か?! 俺だ俺、務だ。」
 興奮した声が飛びこんできた。
 譲は一瞬周囲を見回し、小声で答える。
「おい、仕事中だぞ。」
「わりぃ。すげぇ知らせがあったもんだからさ。」
「すごい知らせ?」
「今データを送る。テキストデータは何をサポートしてる?」
「こっちの電話ソフトはWPhoneだ。」
「じゃどの形式でも構わねぇな。」
 画面に受信中を表す電球マークが点滅し、すぐに終了した。
 文字がびっしりと並んだログファイルが画面いっぱいに広がる。文字列が勝手にスクロールを始め、ぴたりととまった。ネットワークの向こう側で、務が操作しているのだ。
「こいつはBLUR.COMへの接続履歴ファイルだ。何が見える?」
 譲は画面にザッと目を走らせ、ある単語に目をとめた。
 Omega.COM。オメガ・コム?
当たり(ビンゴ)、だろ? Omega.COM経由でBLUR.COMに接続してきて、隠されたデータをごっそり持ってった。多分定期的にアクセスして、DEATHがクラックしたデータを持ってってたんだろうな。」
 俺の形状ファイル、メール、奈々の個人情報、そんなものが全部か、
と譲は不愉快な気分で考える。
 それにひょっとしたら政府のサイトのデータや、企業秘密なんかも。
 底引き網式クラックだ。なんのために?
「人からクラックしたデータを転送するだけってんなら、どこぞのハッカーが趣味でやってるってことも考えられる。でも、Omegaが絡んでるとなると・・・・・・今までに少なくとも4人のハッカーが失踪してる訳だろ? 穏やかじゃねぇよな。」
「俺たちも消される?」
「まぁそこまで言わねぇけど、手をひいた方がいいかもな。」
 それともアメリカに渡って本気で調べるかだ。
 譲としては複雑な気分になる。
 今更調べたところでどうなるわけでもない。ただ、乗りかかった船をここまで来て降りるのも気持ち悪い。
 あのプログラムには散々な目に遭わされたわけだし、何のために作られたものなのかも気になる。
 自分たちがつかまえたプログラムは一体限りとは考えにくい。だとしたら、今もどこかで誰かが被害にあっているのじゃないか。
「手を引くっていうのは、このまま放置するってことか?」
「普通、ウイルスなんかが見つかるとCERTかどこかに通報するんだろ。翌日にゃそいつの存在と対処法がネット上で公開されて、世界中の管理者に知らされる。いや、CERTもおっきい機関だからもうちょい動きが鈍いかもな。先にアングラサイトとかセキュリティ会社からネタが広まるかもしれない。知識さえ広まりゃ、被害は最小限にとどめられる。」
 CERTはセキュリティに関する情報を提供する組織だ。
 ネットワーク管理者やセキュリティの専門家は常にCERTのサイトをチェックしている。
 務の言う通り、ここは自分達の出る幕ではなく、CERTや警察にまかせるべきなのかもしれない。
 それで確かに問題は解決するのかもしれないが・・・・・・
 務は言葉を切り、少しおかしそうな声で言った。
「お前、不本意だって顔してるだろ。今画像は見えないけど、分かるよ。俺だって、あのプログラムを流した奴の顔をおがんでみたいと思うぜ。こっちの身の安全がかかってくるとなると、ちょっと迷っちまうけどな。」
 譲は苦笑した。
 自分の生活をかき乱したのがどんな奴か見てみたい。
 いや、それよりも、あのプログラムを書いた人間に会ってみたいのかもしれない。同じプログラマとして。
 画面に別のメッセージがポップアップした。
 会議の知らせだ。
「悪い、ちょっと用事が入った。また後で連絡する。」
「オーケー。仕事邪魔して悪いな。じゃあまた。」
 譲はパソコンの操作がロックされているのを確かめて席を立った。
 あの事件以来、どうも神経質になっている。職場でパスワードを毎週書き換えるのはやりすぎかもしれないが、用心するにこしたことはないだろう。
 パーティションで区切られた打ち合わせ卓に行くと、山下課長と開発部の者三名がすでに席についていた。吉田の顔もある。
 山下課長が顔をあげた。
「ああ、藤田君。そっちに座ってください。ええ、皆さんそろいましたので、もう一度プロジェクトの内容を説明しましょう。」
 課長が話し始めたのは、この会社でプロジェクトDと呼ばれているネットワーク最適化システムの開発についてだ。
 現在のローカルネットワークの半数以上は、多点型無線通信を利用している。
それぞれのPCは通信の経由地点(ノード)として動作する。ある地点から目的地への経路は無数にあり、常に変容しているわけだ。
 どんな経路を選択するか。それがネットワークの効率を大きく左右するのだが、これがなかなか一筋縄にいかない。
 多点型無線ネットワークでは、電波状況が変わったり、途中のPCが物理的に外されたりと、常に網形態(トポロジ)が変化しつづけているからだ。
 データの流れる道(ルーチング)設定をミスしたために、半日もネットワークが不通になった会社もある。仕事の上でも大きなロスだ。
 ネットワーク最適化システムでは、それぞれの通信機器がデータトラフィック通信量の状態を報告しあいながら、その時点での最適なネットワーク構成を自動的に設定する。
 野崎オートメーション社は、ちょっと気取ってこのこの方法を、動的自己変革システム(ダイナミック・セルフ・リフォメーション)ーDSRと呼んでいるらしい。
 さて、問題は、最適な構成をいかに的確に、いかに素早く見つけるかということだ。今までにさまざまな方法を試みたが、どれも実用化するにはほど遠いものだった。
 そこで目をつけたのが譲の手がけてきたEI(エクセレント・アイディア)だ。
 人工知能を容易にシミュレーションできるEIは、人工知能は最適解を見つけるのに優れている。
 EIの説明を求められて、譲は答えた。
「ご存知のように、EIは神経回路(ニューラルネットワーク)を応用したものです。セルと呼ばれる小さなプログラムがひとつの神経細胞(ニューロン)を表していて、それぞれ自分自身の状態(ステータス)と、他のセルに対する結合強度のパラメータ値を持っている。セル同士の結合強度を動的に変化させることで記憶を蓄積し、学習していくことができます。学習の過程でセル同士の結合が調整されて、最適な結合関係が築かれる。EIのプログラム自体がいわば論理的な動的自己変革システムといえます。」
「それをネットワークに応用することはできますかしら?」
 テーブルの端に座っていた伴野主査が身を乗り出した。中堅の女性社員だ。
「残念ながら今のEI自体に協調作業の機能はありません。でも考え方を応用して、ネットワークの最適化システムを開発することはできると思います。言語は特に問いません。」
 それからしばらく、開発期間や費用、導入効果について議論が行われた。
 時として話が抽象的になりすぎたり論点を外れたりすることも何度かあったが、譲は久しぶりに充実した気分だった。WSソリューション社にいた時の無意味で後ろ向きな話し合いよりずっといい。
 少し休憩にしましょう、と山下課長が提案し、みんなはぞろぞろと席を立った。
 缶コーヒーを買って禁煙室に入ると、後ろから課長が入ってくるのが目に入る。
 愛煙家の彼がなぜ禁煙室に、と首をひねる間もなく、課長は譲の隣に腰をおろした。
「お疲れ様です。どうですか、うちの職場は。」
「いいところだと思いますよ。スタッフに熱意があって。前向きな空気がある。」
「せっかく優秀な方に来ていただいたし、うまく行くといいと思ってるんですが。」
「きっとうまく行きますよ。」
 譲は答えた。
 そう、さっきの熱い議論を聞いていると、そう思える。
「今考えてるようなシステムへの要望(ニーズ)は明らかにある。スタッフもやる気だし、きっといい製品ができます。」
 課長はうなずき、眉をひそめた。
「ちょっと気になることがあるんですよね。」
「なにか?」
「WSソリューション・・・・・・今の松田システムソリューションさんから連絡があったんです。EIはうちの会社の製品だし、アイディアもうちのものだ。お宅には使わせられないって。」
「別にEIを使って開発するわけじゃないでしょう? EIは単体のマシンで動かすだけの単なる開発ツールだ。コンセプトもプログラムもまるで違います。」
「もちろんです。ただ、元になっているニューラルネットワークのコンセプトは同じだろうって言ってきてるんですよ。」
「それはWSソリューション社のアイディアじゃない。」
 俺のアイディアだ、と譲は口には出さずに心の中でつぶやく。
 EIの元となるアイディアは譲が大学時代に研究したものだ。それを応用して開発ツールが作れることも、卒業論文の中で発表してある。
 発表済みのことに特許は申請できない。WSソリューション社が権利を主張できるのは、EIのソースコードだけの筈だ。
「ま、向こうさんがうちに目を光らせるのも分かりますよ。EIもいずれネットワークに対応させる予定だろうし、すべての機器にインストールされるようなソフトができたらソフト屋もネットワーク屋も無視できなくなります。いえ、それほど心配はしていません。たとえ裁判になったってうちが負けるわけないですしね。」
 譲は奇妙な気分になった。
 EIは俺達の作ったソフトだ。企画したのも設計したのもプログラミングしたのも、務やその他、開発部の人間だ。
 EIはいつのまにか自分たちの手を離れ、開発になんの手も貸していない連中のものになっている。いや、そうじゃない。『会社』のものだ。WSソリューションという名の漠然とした実体。
 会社ってなんなのだろう?
 譲は再び、心の中でそうつぶやく。

 殺風景な部屋だ。
 椅子、机、投影装置。無機質なのに、どこか荒んだ感じがするのは人の手がかけられていないからか、それとも別の原因があるのだろうか。
 部屋の真中に男が座っている。
 部屋が持ち主の性格を表すとすれば、男がこの部屋の所有者なのは間違いない。彼の目はどこかこの部屋に似ている。
 彼が見つめているのは巨大スクリーンだ。
 画面はめまぐるしく切り替わっている。文字が凄い勢いでスクロールしていき、いくつかの単語の上で、一瞬文字の流れが止まる。
「もうあまり時間がないわよ。」
 男の後ろから女性の声がした。
 英語にかすかな訛りが感じられるのは、彼女が二世だからか。
 彼は後ろを振り返った。
 美しい黒髪、すらりとした長身の女性がそこに立っている。
「プロジェクトの終了まで、時間がないわ。」
 彼女はそっと彼の肩に手をおき、白髪の目立ってきた彼の髪に指を這わせる。
「他をあたった方がいいんじゃない?」
「招待状はもう出してある。」
 彼はスクリーンに目を戻す。彼の望んでいた情報がそこにある。多分あともう少し・・・・・・
「もうすぐ来るよ。最後の子羊が。」
 彼はかすかに笑い、髪を梳く彼女の指の感触に身をまかせた。

 久しぶりに一杯飲みに行かないか、とEIの元開発プロジェクトリーダ、鷺沼から誘われて、譲は久しぶりに夜の新宿に来た。この街に来るのは奈々と待ち合わせして以来だ。
「最近どうなんだ。忙しいのか?」
「野崎オートメーション社というところで働いてます。元は自動車のマイコンを作ってた会社なんですが、僕は開発室の方で・・」
「ネットワークがらみの仕事をやってるんだってな。三河から聞いたよ。面白いか?」
「面白いですよ。課長が言ってたとおり、俺はものを売るより作る方が向いてますし。」
「EIとコンセプトが似ているんだって?」
「根幹部分だけですけどね。」
 譲はどこまで話したものか少し迷う。
 アイディア自体が企業秘密、ということになるのだろうか。
 山下課長はWSソリューション社がプロジェクトDのスタートに待ったをかけたと言っていた。
 鷺沼が、様子を探りにきたということはあるだろうか?
「うちでも似たようなことを考えていてね。」
 案の定、鷺沼が切りだして、
「EIを色々なOS上に移植して、異なるプラットフォームのコンピュータがネットワーク上で協調作業するようにしたら君達の考えてるような
アイディアが実現できるんじゃないかね?」
「でも今のEIは・・・・・・」
 譲は眉をひそめる。
「複数台で協調作業するようにできていないって言いたいんだろう? 分かるよ。でもな、あちこちから問い合わせが来て、ようやく上の連中もEIの真価に気づいたってわけだ。」
 複数のコンピュータで協調作業させるというアイディアは、もともと譲たちがEIで実現しようとしていたものだ。
 COSならOSの機能をそのまま利用できる。VR―OSなら中間ソフト(ミドルウェア)を開発してかませればいい。けれど、リリース時期やら政治的問題やらのお陰で、発売されたEIにその機能はない。
「これからは販売をメインにする予定じゃなかったんですか?」
「新規商品は開発しないよ。ただ・・・・・・」
 鷺沼はビールをあおり、言葉を続ける。
「多分、お偉方はEIがそれほど注目を浴びるとは思ってなかったんだ。技術的には面白くても、実用には役立たないと踏んでたんだろうな。だから他のソフトとセットで売り出そうとしてたんだ。ところが、雑誌に紹介されてから問い合わせが殺到してる。」
「良かったじゃないですか。」
「注目を浴びても売れるわけじゃないんだよ。EIは個人向けにしては値段が高い。マニアはとっくの昔に違法コピー物を手に入れている。儲けが見こめるとしたら、ソフト会社向けのライセンス供与とか技術提供とかそういったもんだ。ソフト会社は興味は示すが、EIを使ってどうプログラミングしていいか分からない・・・・・・」
「サンプルアプリケーションを配ったら?」
「うちの中で作れる奴が何人いると思う?」
「・・・・・・」
 EIでプログラミングができるのはプロジェクトに参加したうちの一部の人間、それも一通りの機能を把握しているのは十人かそこらだ。
 その中でもコンセプトを百パーセント理解していると言いきれるのは・・・・・・譲のほかにはいないかもしれない。
「上の連中が心配しているのは、うちがもたもたしているうちに他の会社にアイディアだけ横取りされたらということだ。」
「野崎オートメーションの開発に横槍を入れたのもそのせいですか?」
「野崎オートメーションの大株主はMTAだろう。うちとはいわばライバル会社だ。」
 どう答えていいか分からず、譲は黙りこんだ。
 そういう事情には気づかなかった。彼らから見れば、譲が叛旗を翻したようにみえるだろうか?
 鷺沼もしばらく黙々と料理をつついていたが、不意に口火を切った。
「うちに戻ってほしいといったら、どうする?」
 譲は絶句する。
 あまりにも滅茶苦茶な話だ。
「こっちの会社になんて言うんですか。」
「いや・・・・・・悪かった。怒っても無理はない。」
 鷺沼はため息をつく。
「おかしな話だよな、本当に。君をやめさせたなんてどうかしてる。」
「戻れませんよ、今更。」
 言ってから、譲はふと思いあたる。
「ネットワーク機器用EIの開発を野崎オートメーションにまかせたらどうです? 製品も拡張できるし、ライセンス料もとれる。それなら文句はないでしょう?」
「うん。うちでもそういう話もあった。いずれ正式に依頼が行くかもしれない。君の方からも提案してもらえるかな。」
「話はしてみます。あまり期待はしないでください。」
 譲は答え、口直しにビールをもう一本追加した。

 譲の前の課長は、むしろ怯えた仔ウサギのようだった。
 譲は荒っぽい口調にならないよう気をつけながら、どうしてですかと尋ねなおした。
「例のプロジェクトが打ち切りになったんです。私としては、もちろんその・・・・・・残念でならない。何ヶ月も一生懸命前準備をしてきたんですから。」
「打ち切りの原因は?」
「WSソリューション・・松田システム販売の方から、DSR製品を開発するならEIを使えと圧力がかかったんです。共同名義で追加機能を発売して、うちからも社員をプロジェクトメンバに入れろ、と。」
「それで?」
「うちもその・・・・・・MTA系列ですからそうはいかない。かといってソリューションさんを敵に回すつもりはないし、結局は板ばさみで打ちきりになったわけです。何しろうちも、吹けば飛ぶような小さな会社ですから。」
 山下課長は額の汗を拭く。
「それを抜きにしたって、不採用はもったいない。あなたほど優秀な人がうちなんかに来てくれるチャンスはもう二度とないかもしれませんよと上には話したんですが・・・・・・」
 仕方ない話だった。譲の立場はあくまで仮採用で、正式に社員になったわけではない。
 とりあえず働いた分の給料がもらえるだけでもよしとしなければならない。
 譲は部屋の外に出た。
 見なれたオフィス。通いはじめてもう一ヶ月になる。いつもより広く見えるのは、これから出入りすることもなくなるからだろうか。
 席に着くと、隣の席の吉田が画面を見つめたまま言った。
「お世話になりました。」
 相変わらず、ぶっきらぼうとさえ言えるような愛想ない口調だ。
「知ってたのか?」
「プロジェクト、打ち切りになったんだから。そりゃそうでしょ。」
 譲の方に向き直る。
「貴方、うちへ何しに来たんです?」
「どういうことだ?」
 譲は少々癇に障って問い返す。
「貴方は開発内容もうちの内情もよく知っている。貴方がEIの使用をうちに勧めた後、ソリューション社からも同じ誘いが来た。断ったら結局プロジェクトは打ちきり、と。まるで裏で何かあったみたいに。」
「俺がソリューション社のサシがねで来たって言いたいのか?」
「そう思われても仕方ないでしょって言ってるんです。」
 吉田が薄い唇をゆがめる。
「貴方がやりたかったことはなんですか?」
「俺は使う人にとっていいソフトが書きたいだけだよ。会社はどこだって良かった。」
「だったら、それを貫きとおせば良かった。ユーザのことだけ考えていれば良かったのに。」
「俺は何も・・・・・・」
 譲は言葉を飲みこむ。
 ユーザのことだけ考えていた? 本当に?
 EIを使うことがいいシステムを作ることにつながるかどうか、考えてもみなかった。要はソリューション社の利益向上を提案しただけだ。
 もし本当にEIの拡張を行うべきなら、元の会社に戻ったってよかったのだ。それを断ったのは、野崎オートメーション社に義理を感じていたからだ。
 愛社精神なんてないと思っていたのに、結局のところソフトをどうすべきかというよりも、ふたつの会社の顔をたてようとしていたことになる。
 それとも、鷺沼個人、山下課長個人の? それがどう違うっていうんだ?
「少なくとも、この会社の情報を向こうに流したりすることはしないよ。」
「僕は別に、貴方がスパイだなんて思ってやしませんよ。」
 吉田が乱暴に言い放つ。
「残念がってるだけです。見てのとおり、うちの会社にはろくな人材がいない。貴方が来て、喜んでるメンバーはいっぱいいたんです。僕だってそうだ。」
 譲は本気で少し驚く。
 感情を表すのが苦手な人間はいっぱい見てきたが、彼の不器用さはそれ以上だ。
「さようなら。いいソフトを作ってください。」
 吉田はつぶやき、再びパソコンのキーを猛烈な勢いで叩きはじめた。

「お願いっ! 一生のお願いだからっ。」
 奈々は手をあわせた。
「お金や旅行の問題じゃないよ。俺は君のことを心配してるんだからね。」
「大丈夫だってば。譲も一緒に来るし・・・・・・」
「それ、前言ってたプログラマ?」
 学校の廊下。
 昼休みの半ばで、二人以外に歩いている生徒はそれほどいない。
 珍しく奈々が一樹にお願いしているのは、修学旅行を逃すとどうあってもLineMastersに出席できなそうだからだ。何より、Omegaのことも調べられない。
 譲は会社を辞めることになったから、旅行ついでにアメリカに渡ってみると言っていたけれど、人まかせにしておける奈々ではない。
「男と二人っきりで修学旅行を抜け出すつもり? それこそ危険じゃん。ダメだったら。」
「譲はそんなんじゃないわよ!」
 奈々は声を荒立てる。
「まだ数えるほどしか会ったことないんだろ。大体、いい大人が女子高生を家に泊めたりするなんて・・・・・・」
「この分からず屋っ! もういい。あんたとなんか二度と口きかないっ。」
 奈々は激しい剣幕で怒鳴りちらし、去っていってしまった。
 一樹は追いかけようとしたがやめ、少し考えてから携帯を取り出す。
 奈々に何度か電話を貸したことがある。プログラマにかけてたのは、多分二、三回前のこと。
 発信履歴をさかのぼって記憶にない番号を探す。あった。多分これだ。
 五コールか六コール。呼び出し音が消え、一瞬緊張する。
「藤田ですが。」
 思いのほか落ち着いた声が一樹を迎えた。
「小林といいます。望月さんのことでお話があるんですが。」
「望月・・・・・・ああ、奈々ちゃんのお友達?」
 <奈々ちゃん>だってよ、と一樹は内心少々ムッとする。普段呼び捨てにしているところを聞いたら切れていたかもしれない。
「少し、お時間ありますか?・・・・・・」
 七時に、駅の東口で、と約束し、一樹は自分の大胆さに少々驚きながら電話を切った。

 三時間後。一樹は駅前のコーヒーショップで譲と向き合っていた。
 譲は一樹を見てなんの話だろうと少々いぶかる。真面目そうなごく普通の高校生だ。奈々から話を聞いたこと、あったっけ?
「藤田さん、望月さんと一緒にOmegaのことを調べてらっしゃるんですよね。」
 一樹は緊張している自分を意識して咳払いした。
 びびるなよ。相手が大人だからってなんだっていうんだ。五年かそこら、早く生まれただけじゃないか。
「Omegaについて何か知っているのか?」
「僕も良くは知りません。でもヤバいって噂は聞いてます。」
「有名なんだ?」
「ええ。一部の情報通には。そのぅ・・・・・・そっちの世界の・・・・・・」
「アンダーグラウンドの?」
「はい。」
 一樹はプリティ・アックスの話を思い出す。
 例の失踪したハッカー達ね、裏に共通したキーワードがあるの。666、それにオメガ・・・・・・。Omega.comとは関わらない方が身のためよ。
「何をやってる団体なんだ?」
「それが良くわからないから不気味なんです。ハッカーグループの中でも一番技術があって、ほとんど侵入できないところはないって話です。でも、誰が参加しているのか、どんな活動しているのかちゃんと知ってる人はいない。」
「何をしているか分からないのにスキルがあるってどうして分かる?」
「ハックしたサイトに署名を残してるんです。Omega、OMG、666。でも、追跡調査してもひっかからない。追跡したハッカー達もいたけど・・」
「失踪した。」
 一樹はうなずいた。
 譲は考えをめぐらせる。
 Omegaが人を誘拐しているとしたら、ただのハッカーグループというよりは大規模な犯罪組織だ。
 けれど、大きな組織になればなるほど情報は漏れやすい。これだけ情報がないということは、結構小規模な団体なのか。マフィアのような結束の固い組織か、政治団体。宗教団体?
 666は聖書に関係があるって務が言っていたっけ。
 譲がそのことに触れようとした時、一樹が口を開いた。
「藤田さん、アメリカに行かれるそうですね。」
「そのつもりだ。奈々ちゃんから聞いたの?」
「望月さんも行くって言ってます。」
 一樹は修学旅行のスケジュール表を見せる。旅行の初めにサンフランシスコに二泊。奇しくもLineMastersの開催日と重なっている。
「ずっと反対してたんです。Omegaを調べるのは危険だからやめた方がいいって。でも、どうしても自分が行くって聞かない。貴方も行くから大丈夫だって。」
 俺が行くから?
「俺はそんな話、聞いてなかったけどな。」
「貴方のこと信頼してるんですよ。言ったら止められると思ってる。でも向こうに行ってしまえば、守ってくれるって、そう思ってるんですよ。」
 一樹が素っ気ない調子で言い放った言葉に、譲は戸惑う。
 俺を信頼してる?
 大学を主席で卒業しておきながら、まともな職にもありつけないこの俺を?
 自分のことだけだって精一杯なのに、他人の人生に責任なんてとれない。
 第一、Omegaってのが何者かまるで検討もつかないのに、どうやって安全の保障ができる・・・・・・
「俺はそんな、」
「僕は貴方のことを信用してません。いえ、してませんでした。」
「・・・・・・」
「でも、貴方にまかせるしかないんです。だって、この件を知ってて頼れそうな人は貴方しかいない。だから、奈々さんをよろしくお願いします。」
 一樹は頭を下げた。
 譲は言葉を失う。
 そうか、そういうことだ、もちろん。
 本当なら自分が行って守ってあげたいのだ。
 自分にはそれができないから、頭をさげているのだ。おそらくは、ほのかに敵意すら抱いている恋敵に。
「君は・・・・・・」
「約束してください。望月さんを無事に日本へ帰すって。」
 再び頭を下げる一樹に、譲はうなずくしかなかった。
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