聖樹伝説 第九話
消えた勇者(一)(二)

 

                   (一)


 森に足を踏み入れたのは、町を出てから三日が過ぎた昼のことだった。
 初めのうちは、ごく普通の森に思えた。
 当面の問題はその広大さだ。
 小さな王国ほどもあるこの森に、道と呼べるような道はない。
 地図もない、果てなく連なる樹木の迷路で、どうやってビュウの住処を探せば良いもの
か。
 まずはともかく南を目指そうということになった。
 いずれは川に突き当たる。
 ビュウとて人間。水の近くに居を構えている可能性が高いだろう。
 森の中を歩き出して、二日目の午後のことだった。
 保存食の節約のため、鹿でも捕まえてこようと、フェーンとリュワルドが出ていったき
り帰ってこない。
 一時間が過ぎ、二時間が過ぎ、ルウが不安げに木々の奥を見やった。
「大丈夫かなあ。フェーン達、どこまで行ったんだろう」
「彼らのことだ。なに、今に一人では運べないほどの大鹿でも捕らえて帰ってくるだろう
よ。だが、確かにばらばらに行動するのは危険だな。一緒に行動しておれば、例え道に迷っ
ても王家の水晶で森の外へ出られるが、はぐれてしまってはおしまいだ」
 ミュンが考えぶかげに言う。
「王家の水晶って言えば、あれで占い師の家に行くことはできないのかな?」
 ルウがリーシャの方をむいて尋ねた。
「残念だけど、無理ね。移動するには呪文を唱えながら、頭の中に目的地の明確なイメー
ジを描かなくちゃならないの。占い師の家には、まだ誰も行ったことがないでしょう?」
「そうか…そんなにうまく行くわけないか」
 ルウは草の上に横になり、木々の隙間から雲の流れの早くなってきた空を見つめた。
 ちょうどその頃、リュワルドは狐を追って沢へやってきたところだった。
 浅い水の中を走っていった狐は、対岸の砂利の上に立ちどまり、くりくりした目でリュ
ワルドをふりかえる。
 リュワルドは弓に矢をつがえた。
 弓の腕なら自信がある。この程度の距離なら外しはしまい。
 弓の弦がピンとはり、矢がはなたれようとするまさにその刹那―
「ガアアッ!」
 咆哮とともに黒い風が襲い、リュワルドの弓は後ろから叩きおとされた。
 熱い感覚が腕を走るのを感じながら、剣をひき抜き、ふりかえる。
 巨大な灰色熊が、威嚇するようにリュワルドの後ろに立ちはだかっていた。全長三メー
トルあまり。ちょうど日が背になって黒々とした影が地に落ち、馬が一瞬ひるんだように
足踏みした。
 獰猛な目が、らんらんとリュワルドと馬を見下ろしている。
 まるで自らが襲われたとでもいうかのように猛りくるっていた。
「ちっ」
 リュワルドは舌打ちし、向きを変えて大熊につきかかった。
 と、いきなり、馬がどうと倒れたではないか。
 受け身をとって地面を転がったリュワルドは、顔をあげ、信じられないものを目にした。
 馬の腹を裂いた牙が血をしたたらせながらくわっと開く。
―狼だ。
 立ち上がろうとする前に狼はリュワルドに飛びかかってきた。
 かわすのが精一杯だった。
 はねおきて敵の姿を捕えようと目を走らせた時、リュワルドは今度こそ自分の目を疑っ
た。
 森の奥から、もう一頭の熊が姿を現したのだ。先のものより一回り小さい。黒熊だ。
 有り得ない話だった。
 魔物と違い、獣は腹が減ったか身を守るかでなければ、自ら人を襲ったりしない。
 縄張りを荒らされた熊が威嚇してくることはあるだろうが、二種類の熊が同じ土地でい
ちどきに襲ってくるとはどういうことか。
 おまけにこの狼―
 考える暇はなかった。三頭が同時に襲いかかってきた。
 灰色熊の爪を身をかがめてかわし、狼の腹へ剣を叩きつける。血しぶきが辺りへ散った。
 赤黒い滴にまじって、透明な水滴がぽつりとリュワルドの頬に落ちた。
 雨が降ってきたのだ。
 雨はたちまち激しさを増し、地面を黒く濡らした。川の上で、白い王冠がはねはじめる。
 熊の二度目の攻撃を受け流すと、リュワルドは大熊の腹に剣をつき立てた。鮮血が吹き
出し、咆哮があがる。
 体勢をたて直して飛びかかってこようとする狼を、迎え撃つため剣を引き抜こうとした
時。
 黒熊が突進してきた。
 柄までさしこんだ剣は急には抜けなかった。
 躱しきれずに足を滑らせ、地面にもんどりうったリュワルドは、視界の端に、絶望的な
影を認めた。白く煙る雨のヴェールの向こうから、狼の群れがこちらに向かって近づいて
きている。
 起き上がろうとすると、足を痛みが走りぬけた。転んだ時にくじいたらしい。
 武器を失った獲物に、狼が飛びかかった。暖かい息が顔にかかり、リュワルドは観念し
て目を閉じた。
 肉を裂く鋭い音が雨の中に響いた。狼が悲鳴をあげ、川の中へ転がりこんでいく。
 続いて二条、光が走った。
 黒熊の脳天から血しぶきがあがり、心臓を貫かれた灰色熊が音をたてて地面に崩れおち
た。
 助け主を探す前に、リュワルドの手は弓をつかんでいた。
 身を横たえたままひきしぼり、近づいてくる狼の群れへひょうと射はなつ。
 続いて幾条か、リュワルドの手元と別の場所から矢が飛ぶと、鼻先を貫かれた狼達はき
ゃんきゃんと犬のような悲鳴をあげて逃げていった。
 危険が去ったのを確かめてから、リュワルドはゆっくりと起き上がり、自分を助けてく
れた射手を探した。
「大丈夫か?」
 激しくなった雨の中を、馬に乗った男が駆けてきた。雨と霧のせいではっきりとは見え
ないが、布の服の上に狐の毛皮をまとっている。背には矢筒を背負い、右手に弓を手にし
ていた。一見したところ猟師かなにかに見える。
 リュワルドは何度かうなずき、礼を言うと、熊の腹から剣をとりかえした。
 ひひん、と地面に転がった馬が鼻をならした。生きていたようだ。血は流しているが、
まだ歩けそうだった。
 鐙に足をかけ、馬にのろうとすると、怪我をしていることに気づいた男が飛びおりて手
を貸してくれた。どうにか背に腰を落ち着けてから、リュワルドは改めて男に礼を述べた。
「先ほどはどうも助かった。…私はアースター国の兵士で…」
「まあ、堅苦しい挨拶は後にしようではないか」
 男が押しとどめて自分も馬に飛び乗った。
「雨もだいぶひどくなってきた。どこか雨宿りできる場所に行こう」
 二人はくつわを並べて林の茂みの中に入った。雨足はますます激しくなり、木の葉を打
つ水音がやかましく耳についた。どこか遠くで雷鳴が轟いている。
 しばらくすると、二人は茶色い布が木々の間にはりめぐらされているところへやってき
た。
「帰ってきた!」
 下からルウが顔を出し、二人に大きく手をふってみせる。
「こんなに遅くまで、どこに行っていらしたの? みんな心配してたのよ」
 姫が頬をふくらませて馬と人、大きな熊にむけて文句をいった。
 ミュンが苦笑いする。
「それにしても熊を捕えてくるとは…おおきすぎる獲物だな。ん?…」
 言いかけて、リュワルドがフェーンと一緒でないことに気づく。
 隣にいるのは別の男だ。
「フェーンはどうした? それに、そちらの者は…」
「デュランという。私を熊二頭と狼の群れから救ってくれた」
 セイラが目を丸くして、口に手をあてた。
「おぬしが助けたというのならともかく、助けられたというのは意外だな。まあ、まずは
こちらへ」
 微笑んで場所を開けるミュンに、リュワルドは腰をかがめて即席のテントの下に入りな
がら答えた。
「いや…正直いって驚いた。あれほど遠くから、正確に急所を射ぬく者を見たのは初めて
だ」
「おぬしがそこまでいうとは、よほどの名手と見えるな」
「なに、それほどでもないさ」
 腰をおろしたデュランが手を振って笑う。
 ルウが口をはさんだ。
「フェーンはどうしたの?」
「そのことなんだが…狐を追っているうちに、どうやらはぐれたらしい。後からすぐつい
てくると思ったのだが」
「それじゃあ、行方不明?」
 ルウが眉にしわをよせた。
 彼がいなくなるのはこれで二度目だ。どうしてあの男はこうもすぐ消えたがるのだろう。
リュワルドが帰ってきて、ほっとできたと思ったのに…。
「どうしてちゃんと確認なさらなかったんですか?」
 セイラが声を大にして言った。
「こんな森ではバラバラになるのが一番危険です。一度方角が分からなくなれば、もう二
度と出ることはできなくなるかもしれないのに…」
 セイラの真剣な声に押されて、リュワルドは面を伏せた。
「すまぬ。私の不注意だ。…」
「あなたのせいじゃない」
 ルウが隣から慰める。半ばは自分に言い聞かせるように、
「そのうちきっと何もなかったような顔をして戻ってくるんじゃないかな。…それより、早
く食事にしない?」
「だが、ここでは火もたけまい」
「保存食がまだ残ってたと思うけど」
 ルウが荷物をふりかえると、姫が包みの中をのぞきこんで、
「残ってるけど、あと少しだけね。この人数には足りないんじゃないかしら」
「ああ、俺はいい。もう済ましてきた」
 デュランが手をふって言う。
「じゃあ、失礼します」
 ルウが乾燥肉をとってかじりながら尋ねると、
「デュランさんっておっしゃったけど、何をなさってるんです? なんのためにこの森に」
「なに、ごく普通の狩人さ」
 デュランは口の端に軽く笑みを浮かべて答えた。
 食事をおえて、リュワルドの傷の手当てをすませたころには、霧もだいぶひいてきた。
雨も小降りになっている。
 フェーンはまだ帰ってこなかった。探しにいこうとするルウを、ミュンが押しとどめた。
今日は下手に動かない方がいい。ここで野営して帰りを待ち、明日になっても戻ってこな
かったら、きちんと居場所を確かめてから探しにいくべきだ、と。
 少しずつ雷鳴の音が遠ざかっていく。森のさまざまな音に耳をすませながら、ルウは上
空を覆っている灰色の雲を眺めた。

 次の日の朝になった。もう雨はすっかりやみ、雨上がりのすがすがしい香りが森の中に
満ちている。
 ルウが目を開けると、真っ暗だった。背中もなんだか重たく、冷たいものがのしかかっ
ている。
「なに?」
 のそのそと這い出して、やっとその正体に気づいた。
―テントだ。木々の間につるしてあったテントが、雨の重みで落ちてきて、ルウ達の上に
押しかぶさっていたのだ。
 ルウはテントをみんなの上からはがした。上に乗っていた水が、まだ濡れている地面に
筋を作って流れ出す。
 森の中とはいえ、もうその姿を完全に現した太陽が、黄色い光の筋を木々の間に流しこ
んでいた。セイラがうっすらと目を開け、まぶしげにまばたきした。
「あ、ごめん。起こした?」
 肩にかかる黒髪を、セイラは指で梳いて整えながら、
「いえ、もうこんな時間。…あら? あの音は?」
「え? なにか聞こえる?」
 ルウは耳を済ました。とたん、すぐ後ろの茂みがガサガサと動いた。
 ふりかえるルウの前に、黒い服を身にまとった男達が姿を現す。
 剣やメイスを手にし、殺意もあらわに身構えていた。目的は間違いない。
「敵が来た! あの黒衣の男達!!」
 ルウの叫びに、リーシャをのぞく全員が武器をとってとびおきた。
 一番行動がはやかったのは、デュランだった。とっさにルウの剣をつかむと、他の者が
剣も抜かないうちに、男達に切りかかっていた。
 剣が数度閃くと、デュランをとり囲んだ男達は血しぶきをあげてのけぞった。たじたじ
と後ずさる男達の一人を袈裟切りにし、もう一人の首と胴を切り離す。
「くっ……お前達、どいていろ!」
 リーダー格らしい男が舌打ちして仲間を割って出、かけ声とともにデュランに切りつけ
た。いや、切りつけようとした。
 デュランの方が早かった。驚くべき敏捷さでそれをかわすと、彼は男の腕に剣をあびせ
ていたのだ。
 たちまち、黒衣に赤いしみがひろがった。信じられないといった表情でデュランを見る
男に、
「あんたの腕が悪いわけじゃない。相手が悪かったのさ」
 自慢するでもなくつぶやき、デュランは相手の脳天めがけて剣をふりおろした。
 相手の男もさすがに素早かった。剣を左手にもちかえると、デュランの一撃を頭上でう
けとめた。
「……退却するっ!」
 男が叫ぶと、残りの者はほっとしたかのように次々と茂みへ姿を消した。
 デュランは別に追おうとしなかった。
 剣を鞘にもどし、ふりかえりながら、
「今の奴等は何者だ? …追われているのか?」
 尋ねてから一同が唖然としているのに気づき、リュワルドの方へ肩をすくめてみせる。
「なんだ、二度も助けてやったのに、礼もなしか」
「いや、感謝する…」
「おぬし、ただの猟師ではあるまい」
 ミュンが口をはさんだ。
「その剣技、その物言い…どこかの国の、名のきこえた剣士と見た。名字もおありだろう。
よろしければ真の名をお聞かせ願いたい」
「その言い種は猟師に失礼だぞ」
 デュランが笑った。
「彼らとて命をかけて闘っているのだからな。まあ、俺は狩人ではない。ハイベルグ王国
の、シャル家の者だ」
「シャル…?!」
 ミュンを初め、居合わせた一同みんなが息をのんだ。
 同時に頭に閃いた名はみんな同じだ。
 バーン・シャル…
「シャルとはバーンの家の者にのみハイベルグ王が与えた名だ。…それでは貴公があの勇
者バーンなのか?」
 ミュンが驚愕と期待のこもった表情で問うた。
 セイラはじっとデュランの顔をうかがっている。
 息をのんで見つめるみんなに、デュランはちょっと笑って肩をすくめた。
「いいや、シャル家の者ではあっても、俺は兄ほど有名ではなくてな。俺の名はデュラン
・シャル。バーンは俺の兄だ。数年前、旅に出たのだが、遺産の継承について話があって
今探しているところだ」
「彼は生きているのか?」
「恐らくな。実はうわさを……ん?」
 デュランがふと、木々の向こうに目をやった。茂みががさがさと動き、馬にのった人影
が姿を現した。
「リュワルド、ずいぶん探したぞ。心配していたのに先に帰ってしまうとは、冷たいでは
ないか」
「フェーン!」
 逆光で顔はよく見えなかったが声でそれと気づき、ルウとセイラが同時に呼びかけた。
 だがその時、もうひとつの声があがるとは誰が予想したことか。
「兄上!」
 みんながギョッとして、声を発した主を見た。デュランだった。
「兄上ってそれじゃまさか…?」
 息を飲むみんなの間をフェーンはつかつかと歩いてきて腰をおろした。
「デュランではないか。どうしてここに…?」
「兄上を探していたのだ。よく似た人物が、ゴド森へ向かったと噂を聞いてな。さっき偶
然、リュワルド殿が獣に襲われているところを助けて、この一行と一緒になった。まさか
兄上の仲間とは知らなかったが…アースター国からずっと彼らと一緒に旅を続けてきたの
か?」
「ああ。途中で加わった者もだいぶいるが…」
 一同を見回しかけて、フェーンはようやく一同が奇異な目で自分を見つめているのに気
づいた。
「なんだ、どうかしたのか?」
「おぬしがあのバーンなのか?」
 道理で強い…と頭を振るリュワルドに、フェーンはやや決まり悪げに笑った。
「やれやれ、ばれてしまっては仕方がないか。だがな、そこそこの功績をたてておきなが
ら早くに姿を消した人間は、とかく勇者呼ばわりされるもので…」
「バーン殿、そうとは知らずにご無礼いたした。非礼の数々、どうかお許し願いたい」
 ミュンが深々と頭を垂れた。
 フェーンはうんざりしたように手をふって、
「やめてくれ。そんな風に色眼鏡で見られるのが嫌だから今まで名を明かさなかったんだ。
今までどおり、フェーンでいい」
「しかし…」
「人間とはおかしなものだな。俺の性格も実力も変わらぬのに、肩書きだけで扱いが変わ
る。妙に気を使われたり、煙たがられたり…戦いでこけおどしをするのには役立つが、先
入観をもって見られるのはうんざりだ」
 皮肉げに言うフェーンに、ミュンは黙りこんだ。
「フェールド陛下はご存じなのか?」
 リュワルドが尋ねると、フェーンは肩をすくめてみせた。
「自分の王が、素性もしれぬ通りがかりの剣士に大事な任をまかせるほど愚かだと思うの
か?」
 とんでもない展開に、一同が次の句を探せないでいるうちに、デュランが割ってはいっ
た。
「兄上、実は数か月前、叔父上が亡くなられた」
「聞いている」
 フェーンはうなずいた。
「ここに来る間に屋敷に立ち寄って、お前がこっちに向かったことも知っていた。まさか
こんなところで会えるとも思わなかったがな」
「兄上、領地に戻ってくれ」
 デュランが真面目な顔をして言った。
「ハーベルは信用できるが、まさかこのままいつまでもまかせておくわけにもいくまい。
領民達も心配しているぞ」
「俺は何度もことわった筈だ。お前が遺産を受け取って後を継げ。財産だけならいいが、
領地だの宮廷だのへの鎖まで一緒にくっついてくるのではうんざりだ」
 無責任な言い種に、
「なにを無茶な…長子が財産を受け継ぐのは当然だろう。俺だって自由に生きたい」
 デュランが言ったが、要するにお互い面倒を背負いこみたくないだけである。
「まいったな。いまさら王に返上するわけにもいかぬだろうし…」
 フェーンは本気で困ったように、空をあおいでみせた。
 ハイベルグ王国では騎士は貴族と別格で、領地をもつことはほとんどない。シャル家に
おいてはフェーンの父の代にたてた功績で、爵家の地位と領地を、王から特別に与えられ
ていた。子供達にはほとんどありがた迷惑だったようではあるが。
 遺産を押しつけあっている二人に、セイラがそっと声をかけた。
「すみません」
「ん?」
「あなたは本当にバーン・シャル…私のお兄様なのですね?」
 今度はフェーンの方が目を丸くする番だった。
 何度かまばたきし、
「セイラ殿に兄と呼ばれる覚えはないが…?」
「私にあなた方をお兄様と呼ぶ資格があるのかどうかは分かりません。でも…リベイアと
いう名前を聞いたことがありませんか?」
「…リベイア?…」
「お父様のメリオ・シャル伯爵が地方を旅した時、私の母の家に泊まったことがありまし
た。一週間ほどで立たれたのですが、その時母は私を身籠もったのです。伯爵はご存じな
いことと思いますが…」
「そういえば、旅先で困った時に、きれいな女性が親切に世話をしてくれたと話していた
ことがある。母上が亡くなって間もない頃のことだろう。…父上もしょうがないな…」
「先頃…私の母も魔物に襲われて亡くなりました。私には、他に身寄りはおりません。シャ
ル家に侍女としてでも置いていただけないかとお訪ねしたのですが、ご主人は不在とのこ
とで…」
「そういうことなら、彼女にうちをついでもらえばいい」
 デュランが陽気に言った。
「領主が占い師なら、農民達も助かるだろうし…」
「そんな! 私は名もない、町民の出にすぎません。家をつぐだなんて…」
「まあ、そう急に話を進められてはセイラ殿もお困りだろう。とりあえずは任が終わる
まで、家はハーベルにまかせておこう。お前も、セイラ殿も、ビュウの家まで一緒に来る
つもりだろう?」
 フェーンが言うと、デュランはうなずき、セイラもギュッと唇を噛んでうなずいた。
「ここまで来た以上、会わずにはいられません。例えここから一人で戻るより、前に進む
方が危険であったとしても」
 フェーンもうなずいて、言った。
「では早速出発しよう…いや、その前に腹ごしらえだ。俺は昨日から何も食べていないか
らな」
 やがて、肉を焼くいい香りが辺りに漂った。一行は早速朝食にとりかかった。

 

(二)

 森を奥深く進むにつれ、木は次第に密集し、薄暗くなってきた。
 樹木は大きく、高くなり、幹はルウ達みなで手をつないでも取り囲めないほど太くなっ
た。
 古き時代から息づく木々は、どこか神々しい雰囲気が漂わせ、一行を、聖なる地に足を
踏み入れたような不思議な気持ちにさせた。
 だが、聖地につきものの安らぎとはほど遠かった。
 セイラは毎夜寝つけぬようで、今までになく疲れた顔をしていた。
 何者かに見張られている気がするというのだ。
 ルウなども、歩いているとふと視線を感じてはっと振り返ることがあった。だが、いく
ら木々の間に目をこらしても、それらしき姿は見当たらない。
 実際に異変が起きたのは四日目のことだ。
 寝ずの番をしていたリュワルドが、何かの気配に振り返ると、闇の中に光る目がじっと
こちらを見ていた。
 ひとつ、ではない。
 こちらにも、あそこにも、青緑色にらんらんと輝く瞳がこちらを狙っているではない
か。
 槍を構えて大声をあげると、狼の群れが一斉に飛びかかってきた。
 気がついたルウ達も飛び起きて剣を抜いたが、なにしろ数が多い。
 おまけに、普通の野獣なら火を恐れるものなのに、勢いあまって焚き火の中に突っ込ん
でくるものまである。どこか必死という風だ。
 劣勢になりかかったところでミュンが魔法の光で狼たちの目をくらまし、どうにか退治
することができた。
 翌晩には毒蜘蛛の群れが頭の上に降りてきた。
 気づいてすぐに叩ききったものの、ミュンとリーシャが噛まれたことが分かり、しばら
く大騒ぎになった。
 ミュンはリーシャの悲鳴のほうが閉口したなどと冗談交じりに言っていたが、実際セイ
ラが用意していた薬草がなければ命に関わるところだった。
 毒蜘蛛の件があってから、ぴたりと襲撃は止んだ。
 だが、それと同時に、もっとたちが悪いことが起こった。
 どういうわけか、森の生き物達も姿を消してしまったのだ。
 ウサギ一匹見あたらぬ。
 鳥の声すら聞こえない。
 動物はみな死に絶えてしまったとでもいうかのように、葉ずれの音だけがさやさやと不
気味に樹海の中に響き渡っている。
 獣や魔物に襲われるよりも、この静けさのほうがむしろ薄気味悪かった。
 気味が悪いだけではない。小鹿も野兎もいないとなれば、いずれ糧食も底をついてしま
う。
 食物に加え、水もそろそろ心細くなってきたところだった。本当ならとっくに着いてよ
いはずの川に、なぜかいつまでたっても行き当たらないのだ。
 十日が過ぎた昼下がり、フェーンがふと馬を止めて一同を呼び止めた。
「おい、これを見ろ」
 樹木を指し示す。
 木の幹に、剣の形の印と何やら記号のようなものが刻まれていた。
「二日前につけた印だ。どうやら堂々巡りしているようだぞ」
「方角を間違えているということか?」
 ミュンが眉をひそめる。
「いや、陽の位置や木々で方角を何度も確かめている。まっすぐに南下しているはずだ」
 リュワルドが言下に否定し、フェーンが隣でうなずいた。
「俺の計算では、川どころか海にたどりついていてもいいころだぞ。おかしな魔法にでも
かどかわされているのか……」
「いざとなれば王家の水晶があるけれど……」
 リーシャが荷を振り返ると、ミュンが険しい顔で首を振った。
「そうこうしているうちにも魔物が町を襲っているのだ。戻るわけにはゆかぬ」
 フェーンが肩をすくめる。
「だが、このままでは世界が滅びる前に皆で仲良く飢え死にだぞ。シャル家の血もここで
とだえ、弔ってくれる者もなし、と。まあそれはそれで気楽だが」
 皮肉まじりの言葉に、ミュンがむっとした顔でいると、しばらく話を聞いてうつむいて
いたセイラがぱっと顔をあげた。
「導きの石で探してみましょう」
「占いでビュウの住処を探すことはできぬと話していたではないか?」
 フェーンが怪訝な顔をする。
 ミュンが割って入った。
「水のありかを探すというのだろう?」
 セイラが誇らしげにうなずく。
「はい、それで少なくとも川に出られるはずです」
「なるほど、いい考えだ。だが川に出たとてすぐビュウに会えるわけではなかろう。餓死
する前にビュウの住処が見つかることを祈る限りだな」
 フェーンが天を仰いだ。

 小石の指し示す方角へ翌日の昼ごろまで歩くと、小石はぴたりと動かなくなった。
 セイラは小石を見つめたまましばし考えこんだ。
 川はおろか、小さな泉らしきものすら見当たらない。辺りは相変わらず鳥のさえずりす
ら聞こえぬ深い森のままだ。
「また魔法とやらでかどかわされているのか」
 フェーンが尋ねると、セイラは首を横に振った。
「いいえ、確かにこの近くに水が流れているはずです。ただ……」
 セイラは唇を噛んで辺りを見回していたが、つと馬をおりて木の枝を拾いにいった。
 地面に小枝で文様を描き、何やら唱えはじめる。
 詠唱が終わると、図形の上に光の筋が伸び上がり、周囲へ広がっていった。
 と、辺りの木々がめくれるように消え失せ、変わって川原の景色が現れたではないか。
 目の前に幅数メートルほどの小川が流れている。
 湿った土の匂いが立ち上り、川のせせらぎも聞こえてくる。
「すごいわ! 今のは魔法?」
 リーシャが興奮した調子で手を叩いた。
 セイラが顔をあからめる。
「いいえ、魔法を解いただけです。私たちは幻を見せられていたのです」
「しかし、気になるな」
 フェーンが腕組みする。
「幻とやらはビュウが作りだしておったのだろう。獣の襲撃といい、まやかしといい、ど
うも我らはビュウにとって歓迎せざる客のようだな」
「どうして? 世界の異変のことを知らないのかしら?」
 リーシャが首を傾げる。
「知らぬことはあるまい。世に類なしといわれる占い師だ」
「だったらどうして私達を避けているの。世界が滅びたら、いくら隠者だって困るでしょ
うに」
「だが、今見るところ、この森は魔物に侵されていない。ビュウとしては、自分と関係な
いことにかかずりあう気はないのかもしれぬ」
「ひどい話!」
 リーシャが憤慨すると、
「ビュウにもどうしようもない話なのかもしれぬぞ」
 デュランが悲観的なことを言った。
「そんな……!」
「これだけの規模でことが起こっている以上、人間の力では防ぎようがないのかもしれ
ない。あるいは……」
 その時、セイラがあっと小さく叫んだ。
 ガタガタと震え始めたセイラに、ルウが馬を寄せて腕を取る。
「大丈夫? どうしたの?」
「精霊達が騒いでいます……今すぐここから立ち去れと……ああ!」
 セイラがぐったりとルウの方へ倒れかかった。
「こらっ! ちょっと、ルウ様から離れなさい!」
 リーシャが眉を逆立てて馬の背から伸び上がった途端。
 ごおっと音をたてて風が吹き渡った。
 川の面にさざなみが起こり、波が大きくなり、みるみるうちに壁のようになってこちら
へ押し寄せてくる。
 と、なんということか、壁がくるりと輪になってルウ達を取り囲んだではないか。
 ルウはセイラの頭を抱きかかえたまま、辺りを見回した。
 通り一辺倒の魔法ではないのだろう。
 今この瞬間、確かに誰かが自分たちを監視しているのだ。あるいは”何か”が。
「待ってください。話を聞いて!」
 むろん返事はない。
 壁はじわじわと近づいてくる。
「くっ!」
 フェーンが抜刀して、水の壁に切りつけた。
 まるで石の壁にでも切りつけたかのような堅い音が響き渡った。
 もう一度大きく振りかぶり、振りおろす。
 と――
 パンッ
 はぜ割れるような音が響き渡った。
 折れた刃がくるくると銀色の軌跡を描いて飛んでいくのを、フェーンは信じられない顔
で見送った。
「なんということだ…何百回となく打ち合わせても、刃こぼれひとつできなかった鋼鉄
の剣が……」
 そうこうする間にも、水の壁は着実に包囲を狭めてきている。
 すぐ目の前に迫ってきた水壁に、リーシャが悲鳴をあげた。
 驚き恐れて後足立ちになる馬をなだめながら、ルウはもう一度大声で叫んだ。
「精霊達よ。我らは大切な用を携えてきた。話を聞けっ!」
 壁の動きが止まった。
 辺りの大気がざわついたように感じた。
 嵐の前のような不穏な気配。
 やがて、大風のうなるような声が、どこからともなく聞こえてきた。
「侵入者よ、ここから立ち去れ。ここはお前達のような者の来るところではない!」
 ミュンが隣で息をのんだ。
「大気の精か……なんと、精霊がこのように語りかけてくるとは……」
 ルウは宙に向かって語りかけた。
「なぜ私達を妨害するのですか。私達はビュウに会いに来ました。あなた方と争うつもり
はありません。どうかここを通してください!」
「ビュウ様はお前達ごときにはお会いにならぬ!」
 風が吼えた。
「お前達は森を荒らした。禁断の森に立ち入り、木の枝を折り、獣を殺し、森に火をつけ
た。この森の、ビュウ様の平和をかき乱す者は我らが許さぬ」
「お許しください。森を荒らしたのは無知のためです。火をつけたのは自分の身を守るた
めです。でも、危険を承知で森にやってきたのは、私事ではありません。この世界を救う
ためなのです」
「世界を救う、だと」
「ご存知ないのですか。世界中の国々で、魔物が出没しはじめています。三百年の間、誰
も目にしたことのない怪物が、人々を襲っています。このままでは人間の世界も数百年前
と同じ、おちおち外にも出られない、荒廃した世界となってしまうでしょう。そうなる前
に、ビュウ様に会って原因をつきとめたいのです。いずれこの地にも魔物は入り込んでく
る筈……魔物どもに、この森を汚されてもいいのですか?」
 哄笑が響き渡った。
 空を鳴り渡る雷鳴のようだった。
「何も知らずに世迷言を……お前達に何ができる? 世界がなぜこうなっているのかすら
知らぬお前達に。魔物のなんたるか、聖樹のなんたるかすら知らぬお前達に。ビュウ様は
――」
「……もう良い」
 ひときわ澄んだ声が、宙に響き渡った。
 風鳴りが一瞬ぴたりと止んだ。
「……ビュウ様?」
「通してやれ」
「ですが……」
「その者達と話がしたい。通せ」
 とたんに、水の壁がぱしゃりと砕けて地面に崩れおちた。
 澄んだ声が命じた。
「そのまま川下へ進みなさい。小屋で待っています」
 声が消えると、不思議な気配もかき消えた。まるで昼日中から夢でも見ていたかのよう
だった。
 ミュンが低くうなって頭を振った。
「森の獣達を、さらには大気の精すら従えているとは。いったいどんな人間なのだ。ビュ
ウは」
「こんな森の中にたった一人でひきこもってるなんて、そっちの方が驚くわ。よくもまあ
退屈しないこと!」
 リーシャがつぶやいた。
「おまけに来訪者をあんな風に出迎えるなんて! なんて無礼な」
「若い頃は宮仕えしていたが、嫌気がさして俗世を離れたというな」
「そうでしょうよ。変人だからよ」
 リーシャが勝手に決めつけてうなずいてみせる。
 再び歩き出して一時間とたたぬうちに、小屋が見えてきた。
 木で作られた簡素な造りの小屋だ。
 近くの木に馬をつなぎ、戸を叩くと、扉はひとりでに開いた。
「よく来られた」
 テーブルについていた人影が、優雅な動作で立ち上がった。
 銀色の髪に長いあごひげ。白い長衣。
 老人のようだが、すっと背を伸ばしたその姿には、生気が満ちているように感じられ
る。
 一行に席を薦めると、ビュウは自らも椅子に座し、手を組んで口を開いた。
「あなた方が来た理由は分かっている」
「では、異変の原因を教えていただけると……」
「待ちなさい。これを」
 ビュウがテーブルの上を指し示した。
 ビュウの前には人の頭ほどもある水晶球が置かれていた。
 球の中には外の川の風景が映っている。
 ビュウが手を振ると、球の中が白く濁った。
 そのうち、球の輪郭を青い光が縁取りはじめ、白い。他にもぽつぽつと白い靄が見え始
める。
 ルウはようやく何が映っているのか気づいた。
 空だ。
 ぽつぽつと雲の浮かんだ青い空。
 続いて、中央に木が見えてきた。
 堂々たる枝ぶりだが、見たことのない木だ。おまけに、枝が雲の上へ伸びている。いっ
たいいかほどの大きさなのか。
 角度が変わり、木を見下ろすようなアングルになると、今度は地面が見えてきた。
 木の根元には泉が広がり、木洩れ日を反射して、無数に細かな光の波をたてている。細
く、迷路のようにはりめぐらされた根の間に見える色とりどりの模型――町だ!
 ルウはあっと声をあげた。
「聖樹!」
 すると、左手に見える雪をかぶった灰色の岩石群は、マッター連山だろうか? これは
マッター連山から北の山々にまで枝葉を広げる聖樹の光景なのだ。
 ビュウがうなずいた。
「さよう。今見えているのが今の聖樹の姿だ」
「でも、マッター連山の向こうにこんな木は見えなかったはず……」
 聖樹がこれほどの大きさのものだとしたら、山の上からちらりと枝が覗くことがあって
もいいはずだ。
「この木には魔法がかかっている。根の広がる圏内に入らねば、人の目には見えぬのだ。
いや、人以外のあらゆる生き物の目にも。木を守るためだ」
「守る?」
 何から?
「気づかぬか?」
 ビュウが水晶をなでる。
 水晶球の中の景色は、木の近くへ降りてきていた。
 枝が近づき、葉が大きくなる。
 緑の葉。
 いや、だがよく見れば、ところどころ黄ばんでいるではないか。
 風に揺られていた葉が、はらりと舞い落ちた。
 ひとつではない。ここにも、あそこにも。
 いくつもの葉が、空を舞い落ちていく。
「黄葉しているみたい。秋でもないのに」
 リーシャが水晶の中を覗き込んだ。
「聖樹は常緑樹のはず。それが散り落ちるということは、枯れかけている……?」
 ミュンが目を向けると、ビュウがうなずいた。
「いったいなぜ」
「聖樹はなぜ魔物をよせつけぬ力を持っている? 結界の力の、根源は何だ?」
「それは、メンティスの魔法が……」
 いいかけてミュンは言葉を切った。
「いや……シェラード! 結界を生み出しているのは聖なる水の力だ」
 ビュウが、できの良い弟子を愛でるように顔をほころばせた。
「その通り。木が病みしは、水が病みし故。シェラードの水に毒が流しこまれている」
「まさか!」
 みなが息を呑み、顔を見合わせた。
 魔物が跋扈する世界となれば、誰もが困る。
 魔物を招きよせて、得するものなどいないはずなのだ。
「信じられませぬ……なんのためにそのようなことを?」
「その答えはそなた達が探すがよい」
 リュワルドが食い下がった。
「あなたは誰の仕業か知っておられるのだな」
 ビュウは黙って薄く微笑した。
「森の中で我々を襲ってきた黒衣の者達。それとも、緑の髪を持つ一族……オンディー族
……だが、どちらにしろ、聖樹を枯らすとは自らの首を絞める暴挙のはず……それとも
…」
「覚えておろう。精霊たちは汝らを敵とみなした。世はそれほど単純ではないのだよ」
 遠い目で宙を見つめる。
「聖樹の秘密を知った時、あるいは私が世を捨てたわけも分かるやもしれぬ」
 ビュウはしばらく黙りこんだ。自分が人の世に住んでいた遠い昔、あるいはこれから来
たる遠い未来に、思いを馳せているかのようだった。
 やがて再び口を開き、聖樹の根元に広がる町についていくつか注意を述べると、ビュウ
は言った。
「これだけでも、情報は十分だろう。もう行くが良い。樹が枯れてしまってからでは、全
ては手遅れだ」
 礼を言って立ち去りかけようとするルウ達を引き止め、大きな包みを取り出してくる。
「ここに何日か分の食料がある。森を出るには十分なはず。来る道では、森の者達が失礼
をしたが、帰りは迷うこともあるまい。道を戻るなり、川をくだるなりご自由になされ。
だがどうか森のものには手を出されぬよう」
 繰り返し礼を述べて、一行はビュウに別れを告げた。
 家を出ると、ミュンが一行を見わたした。
「さて、これからどうする? 陛下にお知らせするべきか。それともシェラードへ急ぎ、
あの者達を止めるのが先か」
「かくなるうえは一刻も早くシェラードへ赴かねばなるまい。陛下へは私がお知らせしよ
う」
 リュワルドが言った。
「おぬしらは先に樹へ向かっていてくれ。私も王にご報告申しあげてから、すぐにシェ
ラードへ向かおう。マッター連山の北端を越えればアースター国からシェラードまでさほ
どはかからぬはず。聖樹で再会しよう。」
「姫はどうする? リュワルドに送ってもらってお城まで帰ったら……」
 ルウが言いかけると、
「とんでもありませんわ!」
 リーシャが憤慨してみせた。
「ここまで来て、今更帰れるものですか。中途半端に帰っては、お父様にだって合わせる
顔がありません。目的を達成してからなら、『どこへ行っておった?』『世界を救ってき
たの』、なんて……かっこいいじゃない? ね、ルウ様?」
「はあ……」
 困った様子のルウに、フェーンが笑いながら、
「デュラン、お前はどうする? できれば、セイラ殿を家まで送っていってはくれまい
か?」
「よろしければ、私も一緒にご同行したいのですが」
 セイラが控え目に言った。
「こんな私でも、少しはお役にたてるかもしれません。お兄様のお手伝いができれば…
…」
「ならば俺も聖樹へ行くぞ。先に帰ったりしていたら、また兄上に逃げられることにもな
りかねんからな。領地の件をはっきりしてから、一緒に家へ帰ることにしよう」
 デュランが言う。
「リュワルド、一人で大丈夫か。帰りも魔物に出会うやもしれぬ。あるいは私が……」
 ミュンが気づかうように言うと、リュワルドはにっこり笑って返した。
「一人であれば、逆に奴らから身を隠すこともできよう。報告役は一人で充分。国きって
の魔術師はより重要な任にあたられよ」
「おぬしも重要な役割だ。王もさぞ気をもんでおられることだろう。くれぐれも気を抜か
ずにな」
「おぬしらこそ、私より遅れて来ぬようにな」
「それでは、ここで別れることにしよう」
 ミュンが旅銀と食料を分け与えると、リュワルドは馬首を返した。
「では、また会おう。さらばだ!」
 川向こうにリュワルドの姿が消えていくのを見送ると、ルウ達も川下へ向って進みはじ
めた。

 それからしばらく、平和な旅が続いた。
 あれほど不気味だった森は、今ではごく当たり前の安らぎに満ちた森に変わっていた。
 獰猛な獣は姿を見せず、時折リスや子鹿がやって来て、ルウ達の手から食べ物をねだっ
た。
 隣を流れる川は日に日に太くなり、五、六日たったろうか。広大な森の向こうに、はじ
めて別の景色が見えてきた。
 朝靄に包まれてうっすらと広がる滑らかな湖――レクニ湖だった。

                                  つづく
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次回予告:
前編はここで終り。次回から後編に入ります。

レクニ湖を渡った王国では、どうやら大変な騒ぎが起きている模様。
巻き込まれたルウ達は……
次回、『血を引きし者』、お楽しみに。
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