聖樹伝説 第二話
不吉な予感(一)

                   (一)
 滑らかな絹のシーツの上で、ルウは何度目かの寝返りを打った。
 城の廊下は静まりかえり、暖炉の炎だけがパチパチと音を立てている。
 先刻まで鳴いていたふくろうの声ももう聞こえない。城の皆も眠りに就いている時分だ。
 だがルウは、いっこうに寝つけそうになかった。
 ーこんな任務を、私なんかが引き受けていいのかしら? 村を出たことも数えるほどし
かない、田舎娘のこの私が。
 不安と興奮と緊張が、ひとかたまりになって胸に重くのしかかっている。
 剣技ならば、誰にもひけをとったことはなかった。
 村の武術大会で優勝したのは十一の時。以来、人に負けたことはない。
 たとえ相手が腕っぷしの強い盗賊団であっても、得体の知れぬ殺人鬼であっても、ルウ
は恐れはしなかっただろう。
 だが、相手は魔物である。
 絵本でしか見たことのない、魔物の姿を想像してみた。
 それに、聖樹ー
 人の世を守る巨大な樹。その枝はマッター連山の向こうに天高くそびえ、村々や田畑の
上へ決して枯れることのない葉を生い茂らせているという。
 何キロにも渡って広がるたくましい根は、聖なる泉、シェラードの水を吸い上げ、目に
見えぬ結界でこの世界を守ってくれている。
 魔物達はどうやって山を越えてきたのだろう。
 結界に亀裂でも生じたのか。あるいは魔物達が何か別の方法を見つけたのか…
 ルウはベッドから身を起こした。
 とても寝付けそうになかった。
 男顔負けの技を持ってはいても、まだ世間を知らぬ少女だ。
 国を救う、あるいは世界を救うという任は、あまりに荷が重すぎた。
 それにー
 部屋を見回し、息をつく。
 石造りの床にやわらかな絨毯。ベッドの四隅からは彫刻をほどこした太い柱が伸びて、
重い樫の天蓋を支えている。
 細密画の描かれたタイル張りの暖炉には、客が快適に過ごせるよう赤々と火がたかれ、
豪華な彫刻を施したテーブルには、果物を盛った皿と銀の水差しが用意されている。
 ルウの寝室ほどもあるクローゼットには、何十着というドレスや部屋着。
 豪壮すぎる部屋は、かえってルウを落ち着かなくさせた。
 何しろこの部屋だけで、長老様の家と同じぐらいの広さがあるのだ。
 こんな時間に城の中をうろつきまわるのは失礼だろうか。
 ルウは重々しい木彫りの扉を眺めた。
 少し一人で散歩すれば気持ちも落ち着くかもしれない。
 ルウは立ちあがり、クローゼットに用意されたガウンをはおった。
 扉を開け、驚いて立ち止まる。
 廊下の向こうから誰かが歩いてくるところだ。
「ルウ殿ではないか。こんな夜更けにいかがなされた?」
「フェーン…殿?」
 すぐ側まで近付いてくると、壁に点された松明でようやく姿がはっきり見えた。部屋着
姿だが、腰には剣を帯びている。
 ルウははにかんで笑みを浮かべた。
「なんだか気が張って、寝付けなくて…。王宮へ来るのなんて初めてだし、部屋も私には
まるで場違いみたい」
「良かった。思ったより気さくな方のようだ。陛下の前でお会いした時は、冗談ひとつ認
めぬ仲間がまた増えたかと心配していたのだが。宮廷という奴は、どうも堅苦しくていけ
ぬ」
 どこまで本気なのやら、真顔で言うフェーンにルウは微笑んだ。
 ルウの方こそ、騎士とはもっとも堅苦しい人種だと思っていた。
 フェーンは一介の村娘に過ぎぬルウの緊張をほぐしてくれる。
「私、陛下にお会いするのなんて初めてだからすごく緊張していたの。礼儀作法も知らな
いし、きちんとした言葉も分からない。ところであなたはどうしてここに…?」
「なに、ちょっと、ルウ殿の寝室へ夜這いをかけに…」
「えっ?…」
 目を丸くするルウに、フェーンはくすくす笑って、
「いや、失礼。実は少し前奇妙な物音を聞いて目が覚めてな。ルウ殿はお気づきにならな
かったか?」
「いえ…どちらの方でしょう?」
「あっちだ。来られるか?」
 二人は石造りの廊下を、北に向かって歩いていった。
 辺りはかなり薄暗い。ところどころに点された松明が、闇の中からセイレーンの浮き彫
りや半身半馬の像をゆらりと浮かびあがらせる。
 フェーンがいたからいいものの、一人で散歩するのはあまり気持ちよさそうではない。
 廊下の分岐点までやってきた時、右手の通路の床で黒い影が揺れた。
「何者だっ?!」
 フェーンが叫び、ルウも思わず身構える。
 影の主はゆっくりと近づいてきて、やがて曲り角から姿を現した。
「ミュン殿……」
 フェーンが剣の柄にかけた手をひく。ミュンは頭を下げた。
「いや、失礼。用を足しに行っていたのだが、城があまりに広いので迷ってしまった。部
屋はどちらか教えていただけると有り難いのだが」
「おぬしの部屋は、ここをまっすぐ行ったつきあたりであろう。俺より前から泊まってい
るのにまだ覚えぬとは、よほどの方向音痴と見えるな」
 フェーンの歯に衣着せぬ物言いに、ミュンが何か言いかえそうとした時、
「グアアアッ」
 猛獣のような咆哮が、廊下中に響きわたった。いあわせた皆がハッと身構える。
「グオォ……」
 地の底から響くようなうなり声が再び聞こえ…
 ルウは目をみはった。
 闇の中から青緑色の怪物が姿を現したのだ。
 広い廊下を塞ぐほどの巨体、木の幹のような四肢。長く伸びた首の先には体の割に不釣
合な小さな頭がつき、金色をした三つ目がギラギラと松明の光を照りかえしている。
 怪物は三人の姿を認めると、口をカッと開いてもう一声、咆哮した。真っ赤な口から上
下に並んだ鋭い牙がのぞき、天井や床が声に共鳴してビリビリと震える。
「魔物…か?」
 眩暈を感じながらルウはつぶやいた。
 悪夢を見ているようだった。
 いや、夢であったなら、これほど気味の悪い生き物など思いもつかなかったことだろう。
 てらてらした青緑色の肌も、見つめただけで凍りつきそうな三つ目も、本の挿絵の中で
すらお目にかかったことがない。
「ドォムだ。魔力は弱いが力は強い」
 ミュンが説明し、両手の指を組みあわせた。
「一体どこからこんな化け物が……!!」
 抜刀して切りかかろうとするフェーンを、ミュンが制す。
「待たれよ! このような魔物には、剣では歯が立たぬ。また、血を流せば王宮を汚すこ
とにもなろう。ここは私が…」
 ミュンは低い声で呪文をつぶやき始めた。
 その間にも、魔物はゆっくりと歩を進めてくる。
 ずしん、ずしんと重苦しい音が響き、ルウ達は思わず後ろへ後じさった。
 ミュンの手の間に、ぼんやりと光の玉が浮かび上がり…
「…ケイフヴ イフヴ ダラムーン!」
 突き出した掌から、まばゆいばかりの閃光が迸りでた。
 光の奔流が魔物の姿をつつみこみ、大きくふくれあがる。
 魔物が苦しげに咆哮した。
 光が弾けた。
 あまりの眩しさに、ルウは目を閉じた。まぶたの裏が赤く染まる。
 光が消え、目を開いても、しばらくは強烈な光の残像で何も見えなかった。
 ようやく辺りがぼんやりと見えてくるようになって、唖然とした。
 魔物の姿がない。
 指一本、血一滴残さず、跡形もなく消え去っている。
「鮮やかだな……」
 フェーンが呆れたようにつぶやき、ミュンを見た。
 ミュンはちょっと息をつき、慇懃に一礼して、その場を去った。
 まるで、軽く一仕事したといった風でしかない。
 ルウは目を見張って魔術師の後ろ姿を見送った。驚愕のあまり、言葉もなかった。
 ルウ自身、魔法を多少は嗜んでおり、今の呪文も使ったことがある。だがあれは本来、
暗いところでランプ代わりに明かりを灯すための呪文なのだ。
 ミュンはそれを凝縮し、一瞬の間に放出して魔物を跡形もなく蒸発させてしまった。
 なんという技、なんという魔力か。
 とても人の技とは思えない。まるで…
 ーまるで、伝説に聞く魔法使いメンティスのようだ!
 再び不安が身をもたげてきた。
 幼くして両親をなくしたルウは村の長老の家に預けられ、物心ついた時分から剣術を習
わされた。小さい頃からどんな少年も打ち負かし、じゃじゃ馬だと噂されていたものだ。
 少し大きくなると、大人でもかなうものはなくなった。
 だが、あくまで田舎の村の話だ。
 名だたる剣士や武術士達とも手合わせし、ことごとく打ち負かしてきたが、所詮井の中
の蛙ではなかったか。
 ーこれほどの達人達と、自分などが一緒に旅しても良いものだろうか?
 驚きに声もないルウとは違い、フェーンは何か物思わしげにむっつりと黙りこんでいた。
 部屋に向かって歩きだしてから、ようやく思いきったように口を開く。
「ルウ殿、確かおぬしも魔道の心得があると言っていたな?」
 言い方に棘があるようだ。
 ルウはそっとうなずいた。
「ええ、少し……あれほどではありませんけど」
「では尋ねるが、魔物を呼びよせるような魔法はあるのか?」
「えっ?」
 ルウはびっくりし、心の中で身構えた。何が言いたいのだろう?
「あのような大きな魔物が人に知られず王宮内に入ってくるとは思えない。魔法かなにか
を使わねば無理だろう」
「あ…」
 そういえばそうだ。とっさのことで気づかなかったが、入り口を破って飛びこんできた
のならば、もっと城中が大騒ぎになっていていい筈だった。
 ここは城の中心からは離れに当たるが、入り口には番兵がいるし、窓には錠が降ろされ
ている。
 第一、あの巨体が窓から飛びこめるとは思えない。
「あの魔術師、どうも何を考えているのか分からぬ。もう一週間も城にいるというのに、
妙な場所をふらふらしているのによく出会う。まさかと思うが、俺達が起き出さねばもし
や……」
 フェーンが言葉をきった。ルウの部屋の前だった。
「いや、おそらく俺の考えすぎだな。さて、そろそろ俺も部屋へ帰るか。またあした、お
やすみ」
 フェーンが去っていくと、ルウは薄気味悪い気分で廊下をみわたした。
 なぜあんなことを言うのだろう。これから一緒に旅に出る仲間だというのに。それをい
えば、フェーンだとてこんな夜更けになぜ起きてきたのか。物音を聞いたというのは本当
だろうか。
 ー一体、誰を信用すればいいというの?
 前にもまして不安な気持ちがルウの胸を締めつけた。
 初めて顔を合わせる仲間と旅に出る。そこに疑念や不信があるとすれば、任務達成どこ
ろの騒ぎではない。
 廊下へなど出ていかなければ良かった。
 いや、いっそこんな任を、自分などが引き受けるのではなかった!
 ベッドに入ったが、ルウはなかなか寝つけそうになかった。高いところで眠っているせ
いか、夜風の吹く強い音がいつになく耳について仕方なかった。


                                  つづく

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