Project Seven

presented by PSY

■第六話・追跡■


「だぁかぁら、わざとやったんじゃないって言ってるでしょっ!」
 奈々は机を叩いた。
 向かいに座る警官は冷笑的な表情でこっちを見てる。
 隣に立ってる刑事はにこにこしてはいるものの目は笑ってない。
 名前は最初に名乗ったのだが、奈々としてはもちろん覚えてるわけもなく。
 とりあえず、座ってるほうをA刑事、立ってる方をB刑事と頭の中で呼ぶことにする。
「勝手に走りまわるウイルスを追いかけてうっかりとびこんだって? で、そのウイルスってのはどこにあるの?」
「それは・・・・・・」
 奈々は口ごもる。
 つかまえたウイルスはJOHが持ってるはずだ。でもここで譲の名前を出すわけにはいかない。
「あたしのことなんかより、早くウイルスの発信元を調べてよっ。他にも被害者が出るかもしれないんだから。」
 そうよ。なんであたしがこんな風に攻めたてられなきゃいけないわけ?!
 警察ならウイルスの方をなんとかしてしかるべきじゃない?
「だから! つかまえたウイルスはどこにあるの。現物がなきゃ調べようがないでしょ。」
 A刑事がイラついた口調になった。
「あたしは持ってないんだってば。友達に渡しちゃったから・・・・・・」
「友達って? 誰に渡したんだ?」
「言いたくありません。」
 ぷいと横を向く奈々に、A刑事は舌打ちし、B刑事は哀しげなため息をついてみせる。
「強情だなぁ。君も早くおうちに帰りたいだろう。ご両親が悲しむよ。」
「あたしは悪いことしてないんだから。とっとと裁判所にでもいって決着つけたらいいじゃない。」
 奈々は頭の中で計算してみる。
 不正アクセスが一件、警備ロボットプログラムの破壊が一件、両方立証されたってたいした犯罪じゃない。
 なんでこんな些細なこと、警察がムキになって調べるんだろう。
 政府のサイト絡みだから?
「そんな態度じゃ、当分ここから出られないよ。別件が山ほどあるからね。」
 A刑事が意地悪く笑って紙をはじいてみせる。
 奈々がハックした、もしくはハックしたと思われるリストがA4の紙いっぱいに並んでいる。
 半分くらいは身に覚えがないところを見ると、情報源は結構いい加減に違いない。
「それ、あたしがやったんじゃないわよ。証拠はどこにあるの?」
「今調査中だ。じきに証拠もあがる。現実の世界でもネットワークでも、完全犯罪はありえないからね。」
「ふん。あげられるもんなら、あげてみれば。」
 今度はA刑事が机を叩いた。
「おい、警察をなめるのもいい加減にしろよ! あんまりふざけてると、後で後悔するぞ。」
「なめてるのはどっちよっ。あたしなんかつかまえてる暇があったら、もっと他にやる仕事があるでしょ!」
 奈々は噛みつくように怒鳴り返す。
 なんでウイルスを流した張本人を探さないんだろう。
 と奈々は思う。
 電子マネーを偽造したり、ファイルを破壊・改ざんしたり、他人を中傷したりする連中がいっぱいいるのに、どうしてあたしみたいのをつかまえるわけ?
 今までシステムを破壊したのは麻薬の販売業者とか、個人情報の密売屋とか、悪い人たちのところだけだ。
 警察がだらしないから、あたしが代わりにクラックしてあげたんじゃない、くらいに奈々は思っている。
 企業や大学のシステムに侵入したこともあるにはあるけど、中のファイルには一切手を加えなかったし、管理者にセキュリティの弱い部分をちゃんと警告してあげた。
 管理者がむしろ喜んで、その後アドバイスを求めてきたこともある。
 実際、どこかのシステムをハックするより、ウイルスに困ってる人にワクチンをあげたり、クラッカー対策の相談にのってあげたりしたことの方がずっと多いのだ。
 ハッカーがしてるそういう『いいこと』には、警察もマスコミもまるで気をとめてくれない。
「分かったよ、じゃあこうしようじゃないか。」
 B刑事がなだめるように割って入った。
「君はハッカーでも、良識的な方だ。ファイルを破壊したり、人に迷惑をかけたりするようなことはしない。そうだろう?」
 奈々は強くうなずいてみせる。
「だが、中には悪いハッカーもいる。」
「クラッカー。」
 奈々はすかさず訂正を入れる。
「うん、クラッカーもいる。我々としたって、本当につかまえたいのはそういうハッカー・・・・・・いや、クラッカーだ。しかし奴らの尻尾をつかまえるのは非常に難しい。」
 そりゃそうよ、と奈々はつぶやく。
 自分の侵入した痕跡を消すには、システムを破壊してくるのが一番手っとり早い。他人の迷惑を顧みずにファイルを壊すようなクラッカーなら、アクセスした証拠も残りにくいはずだ。
「だったらその、協力してもらえないかね? 君にはいろんな知り合いがいるだろう。知ってることを教えてくれ。そうすれば、今回の件は見逃してもいい。」
 ちょっと待ってよ、つまりこういうこと? あたしに仲間のたれこみをしろって。
 冗談じゃないわよっ!
「悪い条件じゃないだろう?」
「どこがっ!」
「この糞ガキ、いい加減にしろよ。人が下手に出てりゃいい気になりやがって。」
 身を乗りだすA刑事に、奈々は怒鳴り返そうとしたとき、ノックの音がした。
「なんだ?」
 警官が入ってきてA刑事に書類を渡す。
「これ、徴収した資料です。例の、データ破壊の件で・・・・・・」
 奈々は眉をひそめた。
 データ破壊?・・・・・・
「やっぱり当分、おうちに帰れそうにないねぇ。」
 目を通したA刑事がニヤリと笑った。

 取調室を出された頃にはへとへとだった。
 頭の芯がズキズキする。
 何時間くらい話をしてたんだろう。喉もカラカラだ。
 婦警に連れられて覚つかない足取りで歩きだした時、隣の部屋から、男性が出てくるのが目に入った。
 見覚えのある顔だ。ええと、確か・・・・・・
 そうだ、POソフトの社長さん。
「山田さん?!」
 男がドキリとしたように顔をあげた。
「わ、久しぶり。どうしたの? 悪いことでもしたの?」
 山田は答えずに顔を背け、そそくさと通りすぎる。
 どうしたんだろう。
 怪訝な顔で見送る奈々に、
「早く歩きなさい。」
 ついていた婦警が背中をつついてせかす。
「分かってるわよっ。」
 奈々は口をふくらます。
 連れられてきたのは、網を張った扉だ。
 きしむ音のするドアを押し開けると、その先に並ぶのは・・・・・・鉄格子!
 背筋を冷たいものがかけぬける。
 ここから先は『向こう』の世界だ。
 向こうの人たち。
 犯罪者。
 あたし、犯罪者の仲間入りなんだろうか。
「ひどいな今日は。もういっぱいですよ。」
 見張りだろうか、入り口にいた男がうんざりした調子で言う。
「三番を四番にうつしてもらえない?」
「分かりました。・・・・・・ほら出ろ!」
 乱暴に引っ張り出されたのは高校生くらいの少年で、なんだか酔っぱらっているみたいだ。
 けだるげな表情で奈々を見上げ、鼻を鳴らす。
 奈々が入ると、婦警は出ていきドアを閉めた。
 ガチャン!
 冷たい音が響き渡り、奈々は思わずすくみあがりそうになる。
 部屋は薄暗くて、ガランとしている。
 オレンジ色の毛布がかかったベッド。格子のついた小さな窓。
 部屋にあるのはそれだけだ。
 向かいの牢には薄汚れた格好をした男がいて、ぼんやりと部屋の隅に座っている。
「・・・・・・サイテー。」
 奈々は小さくつぶやいた。
 隣から笑い声が聞こえた。
「ほんと、サイテーだよなぁ。むかつくったらねぇよ。」
 さっきの高校生らしい。
 呂律の回らない口調で話を続ける。
「あんた、何したの?」
「何もしてないわよ。」
 奈々はつっけんどんに言い返す。
「何もしてないってこたぁないだろ。」
 うひゃひゃ、と再び笑い声。
「俺の罪状は酔っ払い運転と器物破損。しけてんだろ?」
「・・・・・・」
「あんたの罪状は?」
「・・・・・・ハッキング。」
「わお、かっこいー。」
 少年がクスクス笑う。
「警察のコンピュータもハックできる? 今度教えてよ。」
「バカ、早く寝なさいよ、酔っ払い。」
 吐き捨てるようにいい、奈々は毛布の下にもぐりこんだ。
 何かいいことを考えようとするけれど、思いつかない。
 一度に色々なことがありすぎた。
 突然警察がなだれこんできた。
 次々に運び去られるパソコン、電話、ディスクの山。
 蒼白になる両親の前で、車に押しこまれて、気がついたらここにいた。
 これって前科がつくんだろうか。
 牢屋に入れられたらどうしよう。違う、未成年だから少年院。
 そこで暴走族やら薬中の不良やらと一緒にされて・・・・・・
 大丈夫、大丈夫だったら。しっかりしなさい、奈々!
 明日は両親が面会に来る筈だ。
 それで?
 それでどうなるって言うんだろう?
 親にも、警察にも、友達にも、本当のことを話せない。
 言ったって信じないし分かりっこない。
 誰か助けてほしい。相談できる人がほしいのに。
 奈々は毛布に顔をうずめる。
 夢だったらいいのに。ウイルスも鉄格子も何もかも、目が覚めたらな
くなっていたらいいのに。
 眠れるとはとても思えなかったけれど、じきにまぶたが重くなり、奈々は眠りについた。

 誰だろう?
 廊下を歩きながら奈々は首を傾げた。
 太田 遼。聞いたことない名前だ。
 クラスメートの名前を覚えてないといったって、記憶の片隅ぐらいには残ってるはず。まるきり記憶にないなんて。
 まぁとりあえず面会してみれば分かること。会って得るものはあっても、失うものはない。
 面会室に入ると、にきび面の男の子が立ちあがった。
 同い年ぐらいに見えるけど、顔を見てもぜんっぜん記憶がない。
「二人で話したいんですけど。」
 少年が警官に向き直った。
 お願いというよりは宣言に近い。
「面会時は立会いを・・・・・・」
 言いかける男を遮り、
「まだ犯罪が確定してないんだから、当然その権利はありますよね?」
 落ち着いた様子で問いかける。
 警官が憮然とした顔で部屋を出ると、奈々は男の子と向かいあった。
 やっぱり見覚えがない。ほんと、誰だろ?
 首を傾げていると、
「はろー、SEVEN。」
 どこかで聞いた声が呼びかけた。
「いや、はじめまして、かな。僕のこと、分かる?」
「ああっ! もしかして!」
 奈々は叫び、相手がしーっとささやくのを見てあわてて声をひそめた。
「もしかして、スヌーピー?」
「あたり! 良かった、会ってくれなかったらどうしようかと思ってたんだ。」
 スヌーピーが少々ぎこちない笑顔を見せる。
「どうしてここが分かったの?」
「住所を検索して、だいたいあたりをつけた。まあ、こういうところも初めてじゃないし。」
 辺りを見回し、含み笑いをもらす。
 今までも警察に厄介になったってことだろうか。確かにスヌーピーは半端じゃないくらい、侵入(ハック)盗聴(スヌープ)が得意だった
けど。
 と、考えて、奈々はふと思い当たる。
「そういえば、あたしなんかに会いにきて大丈夫なの?」
 警察はあたしの交遊関係を調べようとしてた。スヌーピーのところにも余計な調べが入るかもしれない。
「警察のブラックリストにはとっくに載ってるよ。むしろSEVENには迷惑だったかな。」
「そんなことないよ。来てくれてめちゃくちゃうれしい。」
 奈々は歯を見せて笑った。
 笑うと無邪気で天使みたいな顔になる。
 スヌーピーが咳払いして視線をそらした。
「どうしたの?」
「ごめん、ちょっと緊張しちゃって。SEVENってほんと、ポリゴンのまんまだね。ビックリしたよ。」
 赤い髪、大きな目、ちょっと生意気そうな唇。
 バーチャル・スペースからそのまんま飛び出てきたみたいな姿を見れば、年頃の男の子が赤くなるのも無理はない。
「スヌーピーはイメージとだいぶ違うな。」
「不細工でがっかりした?」
「そんなことない。でもちっちゃくてかわいいイメージだったから。」
 素顔のSNOOPYはスポーツ刈で、ブレザーよりは学ランが似合いそうだ。
 身長175センチくらい。バーチャル・スペースだと見下ろす感じなんだけど。
「それにしても、なんでハックなんかしたの? よりによってこの時期に。」
「この時期って?」
「今、電子犯罪の取り締まり強化キャンペーン中だよ。警察としちゃなんでもいいから理由があればつかまえたい。そんな時よりによって日本の政府(ガバメント)サイトを狙うなんて。」
 そうなんだ。だからあんなに厳しく調べられたんだ。
 飛んで火にいる夏の虫だったってわけ。
 バカみたいっ!
「政府のサイトに入っちゃったのは偶然なの。ウイルスを捕まえようと思っただけで・・・・・・なのにあいつら、聞いちゃくれないし、全然関係ないハッキングまであたしのせいにしようとして・・・・・・」
「そう、それを警告にきたんだ。」
 スヌーピーが声をひそめた。
「気をつけた方がいいよ。警察や検事って、罪を重くするのが仕事なんだ。一人でも多く逮捕したい。できるだけ凶悪犯にしたてあげたい。そうすれば世間の評価もあがるから。」
「どういうこと?」
「政府サイトの不法侵入(ハック)だけじゃたいした罪にならないから、別件で起訴するかもしれないってこと。POソフトって会社の不正アク
セス及び電磁的記録抹消の件。」
「嘘、冗談でしょ。」
 奈々はぽかんと口を開けた。
 そういえばデータ破壊がなんとかって言ってたっけ。
 でもそれで昨日山田の様子がおかしかったことの説明がつく。
 山田は、POソフトの社長だもの。
 だけど・・・・・・
「嘘じゃないよ。確かな筋の情報だから。」
「確かな筋って?」
「野暮なこと聞くなよ。・・・・・・そうだな、ここから出たら、音声ファイルを聞かせてあげる。」
 スヌーピーがウインクしてみせる。
 多分、警察の電話を盗聴するとかなんとかしてたのだろう。
 少なくとも、今まで彼の漏らした情報が間違っていたことは一度もない。
「あたし、あの会社の社長にずいぶん色々アドバイスしてあげた。セキュリティの相談にのってあげたこともあるし、ワクチンソフトもあげたりしたし・・・・・・。なのにどうして・・・・・・?」
 POソフトのネットワークに初めて侵入したのは、一年くらい前のこと。
 メールサーバ上にセキュリティホールを発見した。
 で、管理者に注意を促すメールを書く時、うっかりしてちょっとした残してきてしまったのだ。
 山田が目ざとくそれに気づき、奈々にお礼のメールをくれた。
 学生時代、山田自身もハッカーみたいなものだったのだ。
 大学を中退してシステム会社に二、三年勤務し、それから独立して自分の会社を作ってからはすっかり「そっちの世界」からは遠ざかっていたらしいが、奈々みたいな良心的なハッカーには共感を持ってくれて、それから何度もメールを交わした。
 TV電話で話したこともある。
 その山田が、奈々を訴えたりするだろうか?
「あそこ、借金かかえて色々ヤバイことやってたみたいでさ、ばれそうになって取引データを消去(デリート)した。でも自分達で消したんじゃ具合が悪いから、ハッカーの仕業だってことにしようとしてる。」
「だからってあたしのせいに? ひどいじゃんっ! そのことも、警察は知ってるの?」
「警察がそそのかしたみたいなもんさ。これだけ大々的にハッカー退治キャンペーンをやって一人もつかまんないんじゃかっこがつかない。名の知れた優秀なハッカーに逆ハックさせれば、あちこちのグループを一網打尽にできる。会社としてもハッカーに破壊されたとなれば保険がおりて一石二鳥だし、断る手はないよ。」
 スヌーピーは会話の様子を再現してみせる。
 データが消えた? 自分で消したんじゃないの? 違うなら、どうして監査が入るこの時期に具合よくデータが消えたんだ?
 ハード不良なら、調べれば分かるしね。社員の操作ミスなら、誰がやったのか調べないと。場合によっちゃ酷いことになるよ。故意にやったならデータ改ざん、詐欺だからね。
 ハッカーの仕業かもしれない?
 ははぁ、それなら仕方ないけどね。
 とにかくログをね、持ってきてくださいよ。
 こっちもちょうど不正アクセスの取り締まりを強化してるとこだから。
 有名なハッカーが捕まえられればこっちも有り難いし、おたくも罪には問わないよ。
 ちょっとログ、調べてきてください。バックアップ取ってるでしょ。
「それですぐにPCを押収しないで、自主的にログを提出させたんだから。その結果は推して知るべし。」
「警察が証拠をでっちあげさせるなんてアリ?」
 スヌーピーは肩をすくめる。
「信じらんない。子供のころ迷子になって、お巡りさんに助けてもらったの。飴をくれたりしてさ、すっごく優しかったのに。」
「僕らが今、道を聞いたって親切に教えてくれるよ。一人一人は親切だって、組織になったら別の話。組織の方針には逆らえないからね。とにかく、警察との話は全部弁護人を通してからにしたほうがいい。ハッカーにも厳しい時代だけど、人権も確保されてきてる。こうやって監視抜きで話すなんて、三年前には考えられなかったしね。こっちにもちゃんと戦う用意があるって分かれば、向こうもそんなにムチャな真似はしない筈だよ。」
「分かった。いろいろありがと。」
 なんだか頭がおかしくなりそうだ。
 警察が嘘つきだとしたら、どうしたらいいんだろう。何を信じたらいいんだろう。
 ノックの音がした。
「五分たったぞ。面会は終わりだ。」
 警官が入ってきて、腕時計を指し示す。
「じゃあまたね。気を落とさないで。」
 スヌーピーが手をふって、部屋を出ていった。
 奈々はさっきの話を反芻しながら立ちあがる。
 ホントだろうか。
 信じられないことだけど、ホントかもしれない。
 とにかく、なんとかして山田に連絡をとらなきゃ。
 話が聞きたい。やってもいないことで罰を与えられるなんて絶対納得できない。
 背後で閉まる錠の音を聞きながら、奈々は唇をかみしめた。

「時間は十分。いいね。」
 警官がドアを閉めた。
 電話のディスプレイ画面を見つめ、奈々は息をつく。
 あいつら、あたしのことをなんだと思ってるんだろう。電話一台あれば悪さできるとでも思ってるわけ?! 
 はじめは、外部への電話は一切禁止だと言い張った。
 それから、監視つきでと。
 冗談じゃない、話くらい一人でさせてよ、と一時間くらい交渉した挙句、ようやく一人きりで電話がかける『権利』をもらったというわけ。
 スヌーピーの言ってたとおりだ。戦えば少しは権利が勝ち取れる。
 警察がビクビクしている理由もわからないではない。
 ちらりと聞いた話だけど、ここのところ一日で百件くらいの無言メッセージが送られてきたり、抗議のメールが送られてきたり、「FREE SEVEN!(SEVENを釈放しろ)」なんて文字が警察署前の液晶掲示板に流れたりと、いたずらが多発しているのだ。
 誰がやっているのかは分からない。けれど、少なからぬ人たちが奈々を応援してくれていることだけは確かだ。アンダーグラウンド界では『SEVENがつかまった』といううわさでもちきりだろうし、ハッカーを応援してくれる言論自由団体の人達もいる。
 でも、奈々としては余計な真似をして警察を刺激しないでほしいというのが正直なところ。問題が起きれば、『それ見ろ、やつらは野放しにできない』なんてハッカー狩をはじめるかもしれない。
 とりあえず、誰にかけよう? 一人だけ、どうしたってかけなきゃならない人がいる。
 ぜったい、じかに話を聞かなきゃ!
 番号案内サービスに接続してダイヤル先を確認する。
 そのまま転送依頼コマンドを打ちこむ。
 どうか出ますように。あたしには十分(じゅっぷん)しかないんだから!
 呼び出し音。呼び出し音。転送メッセージ。そして・・・・・・
「はい、山田です。」
 携帯電話の液晶に、疲れた感じの表情で山田が顔を出す。
 もともとめいっぱい健康というわけでもない顔は土気色で、たるんだ目元の下に隈ができている。
「どちら様ですか?」
 奈々の方にはカメラがない。向こう側の画面には、NO SOURCEの文字と無味乾燥な花の絵かなにかが映っているのだろう。
「あたしよ、分からない?」
 電話ごしにでも、相手が硬直したのが分かった。粗い画面で見えないけれど、多分驚いた顔をしているはず。
「君は・・・・・・」
「そうよ、SEVENよ。」
 沈黙があった。
 山田は目を伏せる。
「どういうこと? あたしが今までしてきたこと、覚えてるでしょ? 」
「ログは捏造したわけじゃない・・・・・・システムに侵入したことは事実だよ。」
「でもその後、あんたの相談にいろいろのってあげたじゃない。クラッカー対策のソフトも書いてあげたし、あんただってあたしがいると助かるって言ってくれた。裏口ルート(バックドア)をわざと残しといたのだって、そのせいでしょ。」
 ひょっとして盗聴されてるかもしれない、と思ったけど、構わずまくしたてる。
 侵入した証拠はどうせ握られてるはずだ。
 山田は黙りこんでいる。
「どうしてあんなこと言ったの?」
「・・・・・・仕方なかったんだ。」
「仕方ないってどういうことよ?!」
 奈々は声を荒立てる。
 どうしても信じられない。
 若い頃にいろんなことに興味を持つのはいいことだって、そう言ってた。コンピュータやシステムの奥深い部分をきちんと勉強しておくのも。
 正しいハッカーの指摘はシステムのセキュリティを強くする。産業スパイやネットワーク犯罪者、組織犯罪からシステムを守り、市場を独占したメーカー側の欺瞞に活を入れることになる。
 そう自分で言っていたのに。
「学生時代はあんただってハッカーだったんじゃないの? データ改ざんはしない。金には手を出さない。それがポリシーだったってそう言ってたじゃない。あたしもそうだってことはよく知ってるでしょ。嘘ついてまでお金が欲しいわけ? いつから人を陥れて平然としてられるようになったの?!」
 奈々のポリシーを知っていながら罪を押しつけたにしたのが許せなかった。
 自分の不正を隠すために人に罪をかぶせるなんて。
「いつからそんな人間になったの? ねえ、なんとか言いなさいよ!」
「・・・・・・俺には会社がある。」
 山田が消えいりそうな声で言った。
「従業員、家族、みんな守らなくちゃならない。たとえ・・・・・・」
 沈黙が落ちた。
 たとえ奈々を犠牲にしても。そういうことだろうか。
 あたしが牢屋に入って犯罪者のあんたは外でのうのうとしてる、冗談じゃない。
「言っとくけどね、そっちがその気ならこっちにも考えがあるわよ。」
 奈々は挑戦的にカメラをにらみつけた。
「あんたの会社で見たこと、全部しゃべってやるからっ!」
 相手がハッとしたように顔をあげるのを見て、奈々はニヤリと笑い、電話を切った。
 いい気味。せいぜいびびってりゃいいのよ。
 訴訟寸前で裏取引したり、経費を不正に申告したり、そんなことを山ほどやってるのは山田からも直接聞いてることだ。
 証拠になるようなファイルは持ってないけど、山田は奈々が決定的なファイルをコピーしていったと思ってるかもしれない。今ごろ電話の向こうであわてふためいてることだろう。
 奈々は時計を眺める。
 あと三分。家族は午後面会に来てくれるはずだし、学校の友達にかける気にはとてもなれない。もちろん、ハッカー仲間に電話をかけるなんて警察の思うつぼ。
 話をしたい人があともう一人いるけれど・・・・・・
 奈々は息をつく。
 駄目、今ここで電話したら、きっと警察がマークする。
 今のところ、警官たちは奈々以外に政府のサイトへ侵入した人間がいるとは思ってないみたいだ。奈々が何も言わなければ、譲のところへは手がまわらない。
 奈々は息をついて部屋を出た。
 これからあとどのくらい、あの尋問が続くんだろう。
 何もかもどうでもいい、裏取引したっていいやという気さえしてくる。
 昔、裏切り者のせいでつぶされたハッカーグループがあったって聞いた。絶対許せないって思ってたけど、今思うときっと逆スパイしてる方も必死だったしすごく辛かったんじゃないだろうかという気がしてくる。
「終わったの?」
 ドアの外の警官が声をかけた。
「あれだけ電話したいって言ってた割には短かったじゃない。彼氏にふられた?」
「バカッ。何言ってんのよ。セクハラで訴えるわよ。」
 奈々は警官をにらみつけた。

 電話のベルが鳴り、譲はソファから飛びおきた。
 鏡の前でとりあえず見られる格好であることを確認し、イヤホンを取りあげる。
 画面に表示されたのは会社のロゴ。耳に飛びこんできたのは昨日聞いた声。人事担当者の声だ。
「・・・・・・いえ・・・・・・はい、分かりました。ありがとうございました。」
 電話が切れたのを確認してイヤホンを机の上に放り投げる。
 これでいくつだ? 七社目か。
 応募した中で、書類の段階で蹴られたのが四社。
 初めの面接で振り落とされたのが二社。
 それにしても、今度のは明らかに不自然だ。一昨日はほぼ採用というところまで話が進んでいたはずなのに、突然取り消し、と。何かがおかしい。
 例のハッキングの件が何か関係しているのだろうか。もし自分が業界のブラックリストにのっているとしたら、まともな会社では雇ってもらえないことになるのだろうか。
 電話のベルが再び鳴る。
 譲は一瞬ドキリとし、フックオフボタンを押す。
「よぉ、元気か?」
「・・・・・・なんだ、お前か。」
 譲はほっと息をつく。
「なんだとはなんだよ。せっかく人がかけてやってるのによ。」
 務が画面の向こうで笑いの形に口をゆがめる。
 会社からの電話を無意識に期待していたことに気づいて、譲は情けなくなる。
 さっきの通知は間違いです。貴方をぜひ採用したい、と。
「どうした、転職先は決まったか。」
「いや。無職(プー)だよ。プー。」
 譲は自嘲ぎみに答える。
「真面目にやれよ。加納の言ったことなんか、気にすることなんかないぜ。あんたをクビにするなんざ、うちの会社に見る目がないだけなんから。」
「気になんかしてないさ。ただ、ちょうど今、不採用を申し渡されたところでね。」
 譲は皮肉な笑いを浮かべた。
 気になんかしてないって? おい、かっこつけるのもいい加減にしろよ。してないわけないだろ。
 大学の時、自分の就職先がないなんて考えたことは一度もなかった。
 自分がどの道を選ぶか、考えていたことはそのことだけで、向こうがこっちを選ぶなんて気にとめてはいなかった。正直、よりどりみどりだったのだ。
 戦う相手は会社の人事ではなくて父親だった。
 自分を医者にしたがっていた父に反発して数学科に進み、大企業に勤めさせたがっていたのに、選んだ先は契約期間がたった二年の小さい会社。
 レールに敷かれた人生を生きるのは嫌だったから。
 もちろん、ただの意地で会社を選んだわけではない。
 内定をもらった会社はいくつもあったが、やりたい仕事に一番近いのがWSソリューション社だった。
 おまけにWSソリューション社の人事や部長は、わざわざ大学まで足を運んで譲や教授を説得にきた。
 ぜひ藤田君が欲しい、と。
 気がつかないうちに自惚れていたのかもしれない。選ばれたのではなく、俺がこの会社を選んでやったんだとどこかで思っていたのかもしれない。
 契約社員であることに不安を感じたりはしなかった。そんなに長いことその会社にいるつもりはなかったし、むしろやめる時気楽だと思ったりもした。
 自分から会社をやめることはあっても、会社からクビにされるとは想像だにしていなかった。今思えば、腹立たしいばかりの思いあがりだ。
 実際のところ、俺は会社から用なしだと宣告されたわけだ。
 あんたは使えない、と。
「正直、自分がサラリーマンに向いてるのかどうかも確信が持てなくてさ。かといって今更研究所ってのも・・・・・・」
「おい、バカ言ってんなよ。これだから、優等生ってのは。」
 務が歯を見せる。
「研究よりも、会社でやりたいことがあるんだろ。あんたを必要としてる会社は絶対あるよ、俺が保証する。」
 譲は苦笑した。
 多分務は自分を買いかぶってくれている。
「俺がやりたいのはさ、いいソフトを作る、それだけなんだ。技術屋は技術的な興味を追求しすぎて全体が見えてないって営業の連中だの課長だのによく言われたけど、俺が一番大事だと思ってるのはユーザがどれだけ喜んでくれるかだ。高い金を払っても買ってよかったと思えるソフト。人の役に立つソフト。そういうのを目指してる。」
 研究の道を勧めた人もいた。それでも就職して開発職についたのは、技術の追求よりも、人に使ってもらえるものを作りたかったからだ。
 けれど実際のところ、自分はいらないと言われたわけだ。市場が分かってない、交渉力がない、だから営業は向いてない、と。
 開発も?
「俺はユーザフレンドリーに作ってるつもりでも、周りからみたらすごく自己中心的な作り方をしてるのかもしれない。ユーザにはぜんぜん必要ない機能をつけてるのかも。それに、そもそもソフトの出来なんか二の次だと思ってる連中もいる。提携とか裏取引とか、そんなことで売れる売れないが決まってくるとしたら、俺みたいなのは会社に・・・・・・」
「おい、やめろよ。」
 務が話をさえぎった。
「あんたは間違ってないよ。あんたみたいな人間がいない会社なんてろくなところじゃねぇ。長い目で見たらうまくいかなくなるに決まってる。今のうちだってそうさ。・・・・・・正直、あんたうちをやめて正解だったと思うぜ。」
 務の口調に何かを感じて、譲はスクリーン越しに務の顔をうかがう。
「あんたの後を追って、何人か会社辞めたぜ。会社のやり方が間違ってるって思ってる奴もいっぱいいる。『藤田さんのいない会社には残りたくない』なんて言ってる奴もいた。いっそのこと会社でも作ったら、連中も引きぬけるかも。」
「俺が? まさか。経営は向いてないよ。」
 譲は苦笑する。
「今、務は何をやってるんだ?」
「言ってたとおり、技術営業さ。旧システム開発やパッケージ開発が作ったでき損ないのクソソフトをかついで売ってまわってる。大変だぜ、出来が悪いの分かってて宣伝するんだからな。営業担当も初めはみんな売る気だけど、だんだん実態に気づいて文句言ってきやがる。あんたら元開発の連中がろくなもんを作らないから、ユーザの苦情処理に追われてるって。」
 譲はEIを思い出す。
 結局あれもテストが途中のままだった。
 自分が抜けたら、まともにテストできる奴はいないだろう。自惚れではなく、システム全体を一〇〇%理解していたのは譲だけだったのだから。
「こっちもホントのことだから謝るしかないだろ。中身もよく分からないしろもんを売らなきゃならねぇ営業担当の連中も気の毒だけどな。こっちは分かってて嘘をついてる分胃が痛ぇ。」
 務は画面から視線をそらす。
「俺はあんたほど開発が好きなわけじゃないし、あの頃もやなこともいっぱいあったけどよ、今思えば幸せだったんだよな。優秀な仲間がいて、夢もあった。」
 夢。夢と呼べるほどのかっこいいものではないにしろ、確かにみんな共通の目的を持って仕事していたのだ。
 いいソフトを作りたい、胸を張って売れるものにしたいという目的。
 土壇場のムチャな仕様変更に、『今からそんなのできませんよ』と言いながらも、結局は徹夜してなんとか要望を実現してしまう、そんなプロジェクトメンバーが務は好きだった。
 傍目からはけんかに見えるほど激しく議論しても、助けあいながら仕事ができるのは、みんな同じゴールに向かって進む仲間だと心のどこかで知っていたからだ。
 今は違う。みんな売上金額向上だけにギラギラしている。
 毎朝電車の中で何度もひき返そうかと心につぶやく、そう言ったら譲はなんと思うだろうか、と務はふと考える。
「務・・・・・・」
 譲の気遣うような声に、務はあわてて言った。
「悪ぃ、愚痴るつもりはなかったんだけどな・・・・・・そうそう、こんなこと話すために電話したんじゃないんだ。例の奴だよ、自走式ウイルス。」
 話を切り替え、画面の外に手を伸ばす。
 譲の画面にペーパーが現れた。
 ウイルスのソースコードだ。
「ざっと見たけど、凄いね、こりゃ。びっくりしたよ。」
「だろ? これを書いた奴ってただもんじゃない。」
「ああ。これだけ小さなファイルに効率よくいろんな機能を詰めこめるってことは、どんな命令がどんなマシン語コードに翻訳(コンパイル)されるか知ってるってことだな。製作者は、相当プログラムに詳しい奴だ。」
 どんな奴が書いたのだろうと譲はふと思う。
 開発をやってる人間だろうか。それともコンピュータマニア? 組織的犯罪かもしれないし、某国のスパイなんてこともなきにしもあらずだ。
 なんのためにやっているかについては見当もつかない。
 ハッキングのレシピ集めか、世の中に恨みでも抱いているのか、遊び半分なのか。
 ファイル名は『DEATH 666』と書かれている。
「666ってのはバージョンかな? それとも署名か何か?」
 譲がタイトルのところを指差した。
「そうともとれる。あるいは『獣の数字』かもしれない。」
「獣の数字?」
「聖書の引用さ。ヨハネの黙示録十三章。世の終わりに、神を信じない人間が獣を拝むようになる。みんな額にマークを押されて、マークがついてない奴は買い物もできない。そのマークが666っていうんだ。人間を指した数字とも言われている。」
「黙示録・・・・・・預言書か。」
「まあハッカーって奴は神話だの聖書だのからいろいろ引っ張ってくるのが好きなのさ。深い意味はないと思うぜ。」
 元ハッカーの友人がいて良かったと譲は思う。
 自分はといえば、アンダーグラウンドの世界という奴はまるきり無縁で生きてきた。務がいなかったら、網の中から壊さずにファイルを取り出すだけで一苦労したに違いない。
 奈々がいればいいのだろうけど、ここ数日、なぜか連絡がとれないし。
「で、ファイルの中身だが・・」
「ザッと見たけど、他のファイルには寄生しないしシステムの破壊も行
わない。ただ、繁殖力は弱いけど時々自己増殖する。ウイルスってよりはワームだな。」
 狭義の『ウイルス』は他のほかのプログラムに寄生するが、『ワーム』は単独で動きまわり、増殖していく。
 繁殖力が爆発的なワームもあるが、情報収集を目的とするワームはたいてい繁殖力が弱く、特定ネットワーク内部で、しかも数世代で死滅するように作られる。情報の送信先アドレスがバレると、製作者の身元が割れてしまうからだ。
 けれど、このワームは他人になりすまし、その人間のノウハウを盗み、自己増殖していく。わざわざオリジナルに見つかる危険性を増やしているようなものだ。
「人間になりすますっていうのは、コピーされた奴を困らせるためかもしれないな。人を困らせて喜ぶよくわかんねえ犯罪者ハッカー(クラッカー)もいるから。」
 務の言葉を聞きながら、譲はそれだけだろうか、と思った。
 このソフトの意図は別のところにあるような気もしないでもない。
「データ情報の送信先は、SHADOW.COMになってるな。」
 譲はリストの一部を指さした。
 このプログラムを動かしている犯人は、集めたデータをどうにかして手に入れている筈だ。
 データの送信先を追っていけば、犯人の居場所がつかめるかもしれない。もしくは、犯人がはめようとしている人間かもしれないが。
「SHADOW.COMってな、ハッカーやクラッカーがよく出入りしているアングラ・サイトだな。多分そこからまた別のアドレスに転送されているんだろう。そうなると・・・・・・まずSHADOW.COMを調べないといけないか。やれやれ。」
「大丈夫か? 相手に気づかれるとまずいだろ。」
「向こうも悪いことしてるんだ、訴訟にはならねぇよ。どうせ今は失うものもないし。」
 困った顔をしつつも、務の表情はどこかうれしそうだ。ハッキングを正当化できるのがうれしいのかもしれない。
 まあなんにせよ、そのアドレスは調べてみる必要がありそうだ。DEATHの情報も。
「今週末辺り、一度会おうぜ。じかに作戦会議をしときたい。」
「分かった。じゃあ金曜の夜に。」
 通信が切れた。
 とりあえず、もう一度奈々に連絡してみるか。
 譲は電話番号をダイヤルしはじめた。

 奈々は受話器を手にしたままじっと待った。
 三コール、四コール。
 きれいな女性が画面に現れる。
「お待たせいたしました。松田システムソリューションでございます。」
 松田システムソリューション?
「あの、これってWSソリューション社の番号じゃ・・・・・・」
「今月から社名が変わりまして・・・・・・」
 社名が変わった? どういうことだろう。
 まあ、とりあえず番号は間違ってないわけだから。
「藤田 譲さんお願いします。」
「藤田ですね。」
 女性が手元でなにかキーを叩く。
「・・・・・・申し訳ございませんが、藤田という社員はおりません。」
 奈々は目を丸くする。
「少々お待ちください。」
 画面がアニメーションに切り替わった。
 保留音はイッツァスモールワールド。クリアモードで回線を弾いているらしく、ハイハットの音まで鮮明に聞こえる。
 でも、今は悠長に音楽なんか聞いてる気分じゃないったら。
「お待たせいたしました。藤田は退職しております。」
「退職?!」
 思わず声が高くなる。
 首になったわけじゃないって言ってたのに。まさか、例の侵入の件で・・・・・・?
「連絡先とか、分かりますか?」
「申し訳ございませんが、こちらではお答えしかねますので。」
 奈々は受話器を置き、電話ボックスの床に座りこんだ。
 どうしていいか分からない。
 本当のことを知ってるのは譲だけ。でもその譲には連絡がとれない。多分、向こうからこっちにも連絡がとれない。メールはもう読めないし、携帯も解約されたから。
 結局、起訴はされなかった。
 山田はあの電話でびびったのか取引を持ちかけてきた。先生も両親も弁護士も、取引に応じるように勧めた。
 たったの五十万ですむなら安いものじゃないか。裁判をすればお金もかかるし自分も傷つく。履歴にも汚点がつく。
 本当は戦いたかった。でも自分にはそれだけのお金も時間も力もなくて、結局はみんなの言うことに従うしかなかった。
 何より悔しかったのは、奈々が無実であることを誰も信じてくれなかったことだ。
 それまで放任主義だった奈々の両親は娘が警察に連れていかれたことにひどく混乱していた。何かうちの娘が悪いことをしでかしたのだろうか、育て方を間違ったんじゃないか、なんて夜中に話し合っているのを奈々はひそかに耳にした。
 先生は真実よりも、学校の名誉を気にかけていた。起訴されて学校名が記事になれば自分の経歴にも傷がつく。
 起訴されなければ傷つかない、と先生は言った。とんでもない。
 教室に入った瞬間の冷たい空気。
 いきなり教室が水を打ったみたいにしんとして、みんながこっちを見た。それから何事もなかったみたいに視線をそらした。
 誰も話しかけなかった。
 舞だけが近づいてきて、今までの授業のプリントを渡してくれた。大変だったねって言ってくれた。
 でもその後に言った言葉は、
『来週、用事ができちゃったの。ごめんね。』
 うちに泊まりにくるって言ってたのに。
 不安そうな目が、用事なんて嘘だって教えてくれた。きっとお母さんに言われたんだろう、犯罪者なんかとつきあっちゃ駄目だって。
 それからの一日は地獄みたいだった。
 だって、考えられる? みんなが端末を使って授業してるのに、あたしの前にはプリントがあるだけ。みんながキーボードを叩いてる時に一人で鉛筆を動かしてる。凄い屈辱。
 腕時計が小さく音をたてた。
 もうすぐ授業が始まる時間だ。
 だけど、とても学校に行く気分になれない。行かなきゃ家族が心配するってことは分かってるけれど・・・・・・
 眼の辺りに熱いものがこみあげてくる。
 グローバルIDは廃止になった。
 携帯電話は解約された。料金を払うお小遣いなんて残ってなかったし、両親は代わりには払わないと宣言した。そりゃあそう、娘が電話を使って『悪いこと』をまたしないとも限らない。
 そうよ、あたしには一銭も残ってないし、バイトももうできない。
 奈々は膝の間に顔をうずめる。
 死んじゃいたい。
 何もかも滅茶苦茶にしてやりたい。
 例のウイルスは野放しにされたままだ。でも、別にいいじゃない? あれを作ったのかうんと悪いクラッカーならいいのに。警察も学校もみんな情報を盗まれて、無茶苦茶にされちゃえばいい。
 あたしの言うことが嘘じゃなかったって気づいて、慌てればいい。そのときはもう後の祭り。
 コンコン、とガラスを叩く音がした。
 奈々は顔をあげる。
 誰かがガラスの向こうにしゃがみこんで、こちらを覗きこんでる。
 奈々はあわてて目をぬぐい、立ちあがった。
 この顔、確か・・・・・・
「やあ。奇遇だね。」
 少年が笑った。
「ムショには行かずにすんだんだ、ハッカーさん。」
 奈々はボックスの外に出る。
 留置所で泥酔していた少年だ。軽い犯罪だから、多分数日で帰されたのだろう。
「こんなところで何してんの? 学校は?」
「いいのよ、学校なんて。」
 奈々はぶっきらぼうに答える。
 教室に、あたしの居場所なんてないんだから。
「ねぇ、俺と一緒に遊ばない? 友達になろうよ。」
 少年が手を差し出した。

「これでいいの?」
「そう。それで、二番目の線はそっちにつないで。」
 指さしながら、奈々は何やってるんだろうと心につぶやく。
 マサアキとかいうこの少年とカラオケに行って、ファーストフードで食事して、いつのまにかここにいた。
 銀行の裏側。光もさしこまない暗い路地。
「それ、立ち上げて。」
 奈々は端末の前にかがみこみ、キーをうつ。
 指が震えていて打ちづらい。暗くって寒いからよ、と奈々は自分に言い聞かせる。
 接続確認のサインが出て、画面に文字が流れはじめる。
「すげぇ、これ銀行のデータ?」
「そうよ。それ、全部記録しといて。左上のボタン。」
 奈々は立ちあがる。
 膝が震えている。夏なのに、ここは寒すぎる。
「ちょっと様子見てくるから。」
 奈々は外の通りへ出た。
 まだ三時半。人通りはあまり多くない。
 時々、主婦やらスーツを着たサラリーマンやらが銀行へ入っていく。
 あくせく働いてためたお金をふりこんだりおろしたり。
 それは全部ただの数字になって銀行の中のコンピュータに記録される。
 オンラインで全世界の銀行へ一瞬にしてふりこまれ、ひきだされる。
 銀行のドアがまた開いた。
 出てきたのは見覚えのある顔で、奈々はあっと息をのむ。
 路地裏へひきかえそうとするがもう遅く、
「奈々?」
 奈々はゆっくりと振り返った。
「ちょうど良かった。連絡がとれなくて困ってたんだ。今日は学校、休み?」
「そ、創立記念日。」
 奈々は口ごもる。
 ずっと会いたいと思ってたのに、今はすごくきまりが悪い。
 だって何もこんなときに・・・・・・
「譲こそどうしたの? 会社、電話したんだけど・・・・・・」
「ああ、ちょっと色々あってさ。まあ後でゆっくり話すけど。今ひま?」
「え、ええと・・・・・・」
 奈々が答えに窮したとき、後ろからマサアキが声をかけた。
「おい、どうしたんだよ。もう百メガくらいたまってるぜ。これからどうしたらいい?」
 質問してから譲が見ているのに気づき、目を細める。
「あんた、誰?」
「いや、ただの知り合いだよ。悪い、邪魔したな。じゃあまた後で・・・・・・」
「待って!」
 奈々はあわてて呼びとめる。
 マサアキがいらついたように腕をつかんだ。
「おい、こっちはどうなるんだよ。最後まで面倒みてくれないと、困るんだけどな。」
「ディスクに落としといて。後で解析するから。」
 マサアキが舌打ちして路地裏へ戻るのを見送り、奈々は譲の方へ向きなおる。
「おい、いいのか。なんなら後で・・・・・・」
「いいのよ、あんな奴。」
 奈々は吐き捨てるようにつぶやく。
 だってホントはあんな奴どうでも良かったんだし、一番話しあわなきゃいけないのは譲なんだから。
 戻ってきたマサアキからディスクを受け取り、連絡先だけメモして別れの手をふった。
 あいつのケータイの番号。
 あんな奴でも持ってるかと思うと腹が立つ。こっちはあらゆる通信手段を取り上げられてるってのに。
 奈々はディスクに目を落とした。
 暗号化された金融取引データが中に入っている。解析すれば・・・・・・
「おい、待てよ。もしかしてそれ・・・・・・」
 譲が見とがめてディスクに手をのばそうとする。
 奈々は素早く手をかえし、ディスクをポケットにすべりこませる。
「いいでしょ、なんでも。早くどっか行こ。」
「いや、良くないぜ。何があったんだよ。」
「譲に関係ないじゃない!」
 奈々は思わずカッとなって叫びかえした。
 恥ずかしさと狼狽とでつい苛だった声になる。
「誰も傷つけなければ、何しようと勝手だって言ってたでしょ。ほっと
いてよ。」
「ホントに誰も傷つかないのか?」
「傷つかないわよ。」
 そうよ、誰かのお金を盗ろうってわけじゃない。
 銀行の取引データを解析すれば、コンピュータで架空の振込みデータを捏造できる。別の銀行からの振込みデータだということにすれば、誰の口座から引き落とすこともない。本来ありえない架空のお金が世の中に数十万円増えるだけだ。
 困る人なんか誰もいない。誰も傷つかない。
「・・・・・・ならいい。俺には奈々が自分を傷つけようとしてるように見えたから。」
 譲が手をひっこめ、奈々は言葉を失った。
 そうだ。分かってる。
 こんなことして傷つくのはあたし。あたししかいないのに。
 あの男に誘われたとき、嫌な予感がしなかったわけじゃない。
 こんな不良とつきあったらろくなことにならないって。
 案の定、カラオケの清算の時、あいつに言われた。
 金、ないの? ハッカーだったらお金、持ってるんじゃないの? と。
 お金を盗ったりはしないのよって言ってやったけど、でも結局捕まったじゃないかと言われると返す言葉がなかった。
 あんた、ハッカーだったら色々できるんだろ。何も我慢することないじゃん。
 悪いことはしないって意地張ったって、どうせまわりはそう思ってくれないんだから。それで金だけねぇなんて、そんな損な話はないんじゃないの?
 ねぇ、その気になったら、電子マネーのデータとか解読できるんでしょ。カードの偽造方法は? 監視カメラのだまし方は? 知ってるんだったら教えてよ。
 話したりしたら悪用するのは分かってたし、堕ちるとこまで堕ちちゃうんじゃないかって思ったりもした。
 でも、なんだかどうでも良くなってしまったのだ。
 最後は正義が勝つなんて子供みたいなこと思ってたわけじゃないけど、心のどこかでは信じてた。いいことをしたら報われる、悪いことしたら罰を受けるって。
 でも現実はそうじゃない。ホントの犯罪者は外でのうのうとしていて、あたしはそいつにお金を払わされた。
 誰も信用できないし、なんだかもう、生きてるのにも疲れた。
「どこに行こうか。この辺にいい店ある?」
 譲が話題を変えた。
 奈々は首を横に振る。
「じゃあ今度は俺が案内するよ。割と長居できる喫茶店があるから。」
 譲が歩きはじめ、奈々は少し遅れて後をついていく。
「あたしが何してたか、聞かないの?」
「人それぞれ、やることにはいろんな理由があるだろ。俺が口をはさむことじゃないよ。」
 あたしのやったことに意味なんてあるんだろうか。
 奈々は自問自答した。
 ない、なんにもない。
 今まで誰もあたしの言うことなんて信じてくれなかった。
 それを信じてくれる人が今ここにいるのに、あたしときたらその信頼を裏切ってる。
 喫茶店でミルクティーを飲んで、ウイルスの解析結果を少し聞いた。半分上の空だったけど。
 我にかえったのは、譲に尋ねられたとき。
「で、奈々は? 今までどうしてたんだ?」
 奈々は返事をためらった。
 否定の印と受け取ったのかどうか、譲はさりげなくつけ加える。
「言いたくないなら別にいいよ。」
「あたし、先週は留置所にいたんだ。」
 奈々は突然勢いよく言った。
 譲が驚いたように眉をひそめる。
「捕まってたのか?!・・・・・・ハッキングで?」
「<覚えのない>ハッキングで。」
 奈々が強調し、
「例の国会サイトに侵入したのが記録されてた。ウイルスのこと話したけど信用してくれなかった。でも、それだけじゃ罪も軽いし証拠も弱かったから、もっと重い罪をでっちあげられた。」
「でっちあげられた?! 誰がそんなこと・・・・・・」
「警察と、ネット上の友達。」
 奈々は半ば一人ごとのようにつぶやく。
「大人なんてみんな嘘つき。誰も信用できない。」
「言ってくれれば証人になったのに。故意のハッキングじゃないって。ソースリストも俺が持ってたわけだし・・・・・・」
「だって譲は大人だし、つかまったらあたしより大変じゃない! 会社も・・・・・・そうだ、会社!」
 奈々がハッと思い出したように身を乗り出した。
「会社、やめさせられたの? 電話したけど退職したって言われた。あのウイルスのせい?」
「いや、そのせいじゃないよ。無理矢理やめさせられたわけじゃない、俺が希望したんだ。あのまま会社にいても、俺のやりたい仕事はできなかったからさ。」
 嘘というわけじゃない、と譲は心につぶやく。
 営業は向いてないと自分でも思う。
 いいものを作る。それが俺の仕事だ。買いたい奴が買えばいい。
 むりやり売りつけるのは性にあわない。
「俺のことはいいから、自棄になるなよ。余計なお世話かもしれないけど、俺も自分にとって大切な人間が傷つくとこは見たくないからさ。」
 奈々は顔を赤らめる。
 バカ。なんで真面目な顔してそんなこと言えるのよ。
 二回しか会ってない女の子に『大切な人間』なんて言葉の安売りもいいとこじゃない。ううん、譲がそんな意味で言ったんじゃないことは分かっているけれど。
「あたし、ただ寂しかったんだ・・・・・・コンピュータはとりあげられるし、クラスの子はみんな冷たい。家族ともぎこちないし、ネット上の友達とは話もできない。話を聞いてくれる人も遊んでくれる人もいない。」
 学校をさぼったところで、やることもないのだ。友達もいない、お金もない、ネットもないとあれば。
「俺でよけりゃ今日一日つきあうぜ。」
 奈々はドキリとして譲の顔をみあげる。
「こんな親父やだって言うんなら別だけど。さっきの奴よりはマシだと思うな。」
 楽しくないわけないじゃない!
 譲とデートしてから、他の奴らと話すのなんて退屈で退屈で仕方なかった。
 譲は大人だし、親切で、あたしを傷つけない。すごく頭が良いのに人を見下さないし、凄いプログラムだって魔法みたいに一瞬で作れる。
 びくびくしながら人をおだてあげる連中とか、女の子はみんな男より下だと思ってる阿呆どもとは大違いだ。
 でも・・・・・・
「あたし今全然お金持ってないよ。」
 奈々は言った。
 全部譲に払わせるなんて、なんだかワンタイム・デートみたいで嫌だ。
 これはバイトじゃないもの。
「金なんかいらないよ。いいとこ、知ってるからさ。」
 譲がニコリと笑った。

「きゃーっ、気持ちいーいっ!」
 奈々が叫び声をあげた。
 風が勢いよく髪をなぶる。BGMは今流行りのスピード・ビート系ミュージック。クールなリズムの上にストリングスのハーモニーが波のように覆いかぶさる。
 車がカーブにさしかかり、適度な重圧()を体にかけてから加速して直線コースに戻っていく。
「譲って飛ばし屋だったんだね。なんかいがーいっ!」
 奈々はシートの上に腰を下ろし、興奮した調子で叫ぶ。
 風とエンジンの音で、叫ばないと声が流されていく感じ。
「ストレス発散にはスピードが一番だろ。これからカーブ多いから、シートベルトしといた方がいいぜ。」
「はぁい。」
 奈々は案外素直に返事をし、シートベルトをしめる。
「よく車、乗るの?」
「学生の頃は毎週ドライブに行ってた。夜の高速飛ばしたり、山道走ったりさ。」
「割とムチャするの好きなんだ。」
「まあね・・・・・・でも今んとこ無事故無違反だから心配するなよ。」
「してないよ。」
 奈々がシートの上で伸びをする。
 一方の譲は、ここで事故ったりしたら、間違いなく犯罪者だよな、と心につぶやく。
 いい大人が平日の昼間に女子高生を連れ出して海にドライブ? 新聞の格好のエサだ。
 と、いうか、事故らないにしても既に結構ヤバイんじゃないだろうか。
多分奈々は無断で学校を欠席している。創立記念日だという本人の主張を尊重して追及しないでいるけれど、客観的に考えるとおそらくサボりだ。
 ひょっとしたら、学校から家に連絡が行っていて、今ごろ騒ぎになっているかもしれない。捜索願だって出されるかも。
 なんで奈々を誘い出したりしたんだろう。
 我ながら不思議な気分になる。
 他人の面倒にはできるだけ関わらない主義なのに。
 前会ったときとうってかわって不安そうな奈々がなぜか放っておけなかった。
 同情したとか、面倒を見てやろうと思ったとかいうより、自暴自棄な様子にどことなく共感(シンパシー)を感じてしまったというのが正しいかもしれない。
 自分も自棄(やけ)になりかかっていたから。
 当の奈々は、さっきまでの落ち込みようはどこへやら、音楽に合わせて口笛をふいたりしている。
「明日は学校?」
 譲はそれとなく尋ねてみた。
「ん・・・・・・そう。ホントは在宅学習の日なんだけど、あたしは家の端末、取り上げられちゃったから。頭きちゃう。」
 奈々はため息をつく。
「学習用の端末もないのか? 学校から借りたら?」
「無理よ。学校の端末だって取り上げられてるもん。みんながキーを打ってる時に、あたし一人でノートとってるの。笑っちゃうでしょ?」
 奈々が鼻を鳴らした。
「教師のいじめに近いよね。慣れてるけどさ。」
「考えすぎだろ。」
「根拠なく言ってるわけじゃないもん。先生達のメール、読んだことないでしょ? 驚くよ。」
「読んだのか?」
「わざとじゃないってば。それよか先生達が生徒のメール盗み読みしてたりするの、知ってた?」
 譲は返す言葉を失い、アクセルを踏み込む。
 高校生。
 断片的にイメージが浮かびあがる。受験勉強、部室(コンピュータルーム)、バイト、友人たち。
 教師に悪い印象はそれほどない。譲が問題を起こさない『いい子』だったからかもしれない。
 不良連中はいつも愚痴をこぼしていたっけ。教師なんて誰も信用できない、と。
 まだ十年もたっていないのに、遠い昔の記憶のように思える。
 あの日何をした、この時何をしたという強烈な記憶はあまりない。とにかく毎日急がしかった。それでいて同じような毎日。
 やりたいことは山ほどあるのにとにかく時間がないのがもどかしかった。せめて授業が半分だったらと何度思ったことか。
「あーあ、学校行きたくないなぁ。」
 奈々は飛び行く景色を眺めながらぼんやりとつぶやいた。
「行きたくないなら無理して行くことないんじゃないか。どうせもうすぐ夏休みだし。」
「あ、冷たい。自分はさぼったことないくせに。」
「あるよ。」
「ホント?!」
 奈々が驚いて目を丸くする。
「ホントさ。高校の頃は受験勉強で、学校の勉強なんかうざいだけだったし。大学時代はバイトが結構忙しかった。」
 譲は苦笑する。
 ガリ勉だの研究一筋だの、まわりが勝手に思いこんでいるにすぎない。譲としては笑える限りだ。
 高校の授業はレベルも低く、譲にとっては面白くなかったから、適当にまびいて部室へ遊びに行っていた。プログラムのバイトが締めきり間近の時には、部室で徹夜してそのまま寝こみ、一時間目の授業を寝過ごしてしまったこともある。
 大学時代は結構遊びにもいったし、バイトもかなりやった。共通カリキュラムはテキストを流し読みすれば事足りる。熱心に出席したのは大学院の輪講や学会、それに興味本位で聴きにいった他大学の講座くらいだ。
「譲も休んでたくらいなら、このまんま夏休みまでさぼっちゃおっかなぁ。」
 奈々がつぶやく。
「まあそれもいいけど。でも、もしクラスの奴らの視線が気になるとか先生がどうとかそんなのが原因なら、休むのはもったいないんじゃないか。それって負けたってことだろ? 奈々は悪いことしてないんだから、堂々と胸張ってりゃいいじゃん。」
「そっか・・・・・・うん、そうだよね。」
 奈々が納得したようにうなずく。
 そうよ。ここで退いたら、自分の非を認めたってことじゃない。
 明日、舞と話してみよう。
 今までのことちゃんと話したら、分かってくれるかもしれない。あたしに端末を貸してくれるかも。
「そういえば、今高三だったっけ? 受験勉強、忙しいんじゃないの?」
「あんまやってないんだ。大学行ってもどうせやることないし。」
「就職するつもり?」
「やだ、サイテー。」
 奈々は身震いする。
「どうして。」
「会社の内情知ってるもん。社内メールは不満や悪口ばっか。ずっと前、外務省のシステムがハングしたの、覚えてる? あれってシステムの開発者が、わざとバグ入れたらしいよ。お役人が態度でかいのに頭きてさ。五島自動車だって、衝突回避システムに欠陥があるの知ってて売りまくってたわけだし、チップ建設は耐震工事でわざと手抜き工事してる。今度知り合いのハッカーがすっぱ抜こうって言ってたけど。会社なんてきれいごとばっかり宣伝してるけど、裏じゃ汚いことしてるでしょ。そんなのやらされるかと思うとぞっとする。」
 奈々がため息をついた。
「大人なんてみんな嘘つきばっかり。あたし、大人になんかなりたくないなぁ。」
 そんなことはない、そう言ってやりたいけれど、今の譲には何も言うことができない。
 会社に入ったとき、子供の頃叩きこまれていたことと一八〇度価値観が違うのに唖然としたものだ。
 至上命題は金になるか、ならないか。福祉も、環境問題も、その他人類の幸福に関わるどんな大きな問題すらも『金』という絶対かつ神聖なルールの前にはかすみのような存在でしかない。
 『環境に優しい』が謳い文句の会社も中ではじゃんじゃんコピーを使い、電気を使い、無駄なゴミを出しまくっている。
 友人の入った会社は、ISOの決まりでゴミを分別して出していた。ゴミの回収業者が実は産業廃棄物を山へ捨てていることを知っている社員は一人二人ではなかったのに、ばれなきゃそれまでとみんな目をつぶっていた。
 いずれは自分につけが回ってくるのに、なぜみんな目の前の業績にしか目を向けないのだろう。趣味でボランティアをやっている男が、なぜ平気で報告書を捏造し、経費をでっちあげ、客に嘘八百が並べられるのだろう。
 盲目的に金を儲けて、それでなんになる?
 給料があがってみんなの生活が楽になるのだろうか。それとも一握りの株主のため?
 配当金の儲けなどわずかなものだ。株主の大半は、売買でさやを得ることが目的だし、業績と株価は比例しない。それでも、会社は一円でも利益をあげようと走りつづける。
 今年一億売れたなら来年は二億、次は四億。破綻することは分かっていても一介の従業員達にはどうしようもなく、会社は暴走を続け、いつかは自滅して大量の社員を犠牲にする。
 若い頃から余計なことを知っているのは酷かもしれない。
「なんのために生きてるんだろうって時々思っちゃう。学校行って、授業出て、バイトして・・・・・・土日と夏休みだけが楽しみでさ。大学に行っても会社に行ってもこんなんだったら生きてても仕方ない気がしちゃう。」
「大学は面白いよ。高校とは全然違う。行っておいてもいいと思うけどね。」
「ホントに? でも大学行ってもなんにもならなかったって言ってる人
もいるよ。」
「それはそいつの勝手だろ。大学ってさ、なんでも好きなことができるんだ。勉強でも、遊びでも、バイトでも。さぼるのも自由、落第するのも自由、服装もなにもかもみんな自由。誰も人の生き方に口をはさまないから、だらだら過ごす奴もいるし、いろんなことを広く浅くやる奴も、ひとつのことに打ち込む奴もいる。変わった奴らがいっぱいいて楽しかったよ。」
「ふーん・・・・・・」
「他にあんなに自由になれるとこってないと思うな。会社に入るとそれはそれで大変だし、高校なんて色々うるさいだろ?」
 奈々は深くうなずいた。
「先生とか、超うるさい。授業聞く態度が悪い、服がだらしない、髪が派手だ・・・・・・自分だって、不精髭はやしたムサムサのかっこで学校に来るくせに。」
 譲がニヤリと笑う。
「ま、時代遅れの遺物だと思って大目に見てやれよ。口で注意するだけで、どうせ手は出せないんだから。」
「みんな、どうしてあんなどうでもいいこと、気にするんだろ。大人がみんな譲みたいだったら話しやすいのになぁ。」
「でも俺も、昔はすげーうるさかったんだぜ。風紀委員やっててさ、」
 譲は奈々の方をちらっと見、
「その髪だったらまあ、その日のうちに染めにいかせてたね。」
「そうなの?! こういうの、嫌い?」
 奈々が赤い髪をつまんで真剣な顔で尋ねる。
「いや、クールだと思うよ。似合ってるし。でも、そのころは、校則は守らなきゃいけないって信じこんでた。」
「ふうん。いつから考えが変わったの?」
「いつってことはないけど、そうだな、高二になった頃かな。ちょっと不良っぽい奴に注意したら怒り出してさ、なんで髪を染めちゃいけないんだって絡むんだよ。そういえばなんでなんだろうと思い始めて・・・・・・」
 そもそもなんでこいつらは校則を破りたがるんだろう? 
 それが譲には疑問だった。
 俺は別に校則を守るのはなんでもないのに。
 取り締まりの時間以外にそいつらと色々話してみた。批判とか非難とかは一切ヌキに、彼らと同じ視点で。
 だんだん、彼らがなぜそんな風にふるまうのかが分かってきた気がし
た。
 理屈じゃないのだ。髪を染めたりタバコを吸ったり些細なことでケンカしたりするのは、彼らの仲間うちではごく自然なことなのだ。
 かっこいいからやる。それが普通だからやる。
 学校への不満の無意識の表れだとか、親に対する独立心の象徴とか、いろんな説明をつけることはできる。けれど、それは大人の世界、教師や心理学者の論理で、彼らから見ればナンセンスだ。
 彼らには彼らなりのルールがあって、自分達の価値観に従いながら生きている。それをとやかく言う権利が誰にあるのだろう。
 そもそも万人に共通の正義なんてどこにある?
 漫画を没収した風紀委員が陰でそれを読んでいる。かつあげとどこが違うのか。
「仲良くなってみたら結構いい奴らだった。ゲーム貸してくれたりタバコくれたりさ。生徒会で空き缶収集やってたの、手伝ってもらったこともあるし。暴れ出すと手がつけられなかったけど、俺には手をあげなかったな。」
「タバコ吸ったりしたの? 先生怒らなかった?」
「俺は吸ってないよ。俺には俺の生き方(スタイル)がある。誰にも迷惑をかけてない以上、どんな生き方をしようと俺の勝手だろ。」
 残念ながら、現実にはそうはいかない。
 あらゆる人間が人の人生に介入しようとする。
 どこの大学に行け、あっちに就職しろ、人とはこうつきあえ、と。
 みんなが違う意見を持っていて、それを主張しあう。それはいいことだ。でも相手が言うことを聞かないと力でねじふせようとする。
 子供の頃には物理的な力で。大人になると、権力で。
 万人に共通のルールなどありえない、と譲は思う。あるとすれば他人を傷つけないこと、自分を傷つけないこと。そのふたつだ。
 自分も思い通りにできないくせに、人を思い通り動かそうとする人間が多いのはなぜだろう。
「みんなが人の生き方に余計な口をはさまなけりゃ、争いも減るしみんなもっと幸せになれるのにな。」
「かもね。」
 車がトンネルに入った。
 音楽配信データが一瞬途切れ、一時、風のゴウゴウ唸る音とエンジンの音だけになる。
 1/fゆらぎ。思考を麻痺させてくれる心地よいノイズ。
 外に出ると、道幅がぐんと広がった。
 両手は丘。途切れることなく見えていたビルや建物は、だいぶまばらになっている。
「今、どこ走ってるんだっけ?」
 奈々が尋ねた。
「ニュー・シーサイド。ゴミの上。」
「ふうん。どこに向かってるの?」
「もうすぐ。ほら・・・・・・」
 左手の丘が途切れた。
 わあ! と奈々が歓声をあげる。
 海が広がっていた。
 そういえば、さっきから潮の香りがしてたっけ。波の音が、BGMのリズムと溶け合う。
 少し先に橋があって、海の上へまっすぐに伸びている。海上には建設途中の浮島(フローティング・アイランド)があって、蛸の足のように曲がりくねったウォータースライダーが白く輝いている。
 譲はハンドルを左にきった。
 三層構造になった橋の一番上を走りぬける。平日の昼間とあって、行き交う車はあまり多くない。
 島の半ば辺りで車を止めて、外へ出た。
 風が強い。
 周りに見えるのは真っ青な海、真っ青な空、それを区切る鋭角的な人工物の輪郭。
「へえぇ、もうだいぶできてるんだ。」
 奈々がウォータースライダーを見上げる。
 下から見ると威圧的で異質な感じで、異星人が作った発射装置か何かにも見える。
「マリンパーク、今年の八月に公開だっけ。」
「地上部分はね。海の中は来年夏。」
「チューブを通すんだっけ? イルカの牧場。潜水艇も出るんだよね。楽しみだな、完成。」
「そうだな。」
 譲は島の周辺部へ向かって歩きだす。道路は広くてまっすぐで、日本では他にないほど幾何学的だ。
「ちょっと寂しい気もするけど・・・・・・。」
「どうして?」
「大学の頃から、よくここに来てたから。まだ車も全然来てなくてさ。一人になれた。秘密のスポットが有名になっちまうのって少し残念だろ。」
「その頃って、まだなんにもなかったんじゃないの?」
 奈々が尋ねた。
 展望台も、管制塔も、オフィスビルも、つい最近できたものだ。
「ああ、骨組みにコンクリートをのっけたような殺風景な場所だった。でも凄いと思ったよ。こっち、来てみろよ。」
 譲が建造途中のビルの中に入る。無人のロビーを抜け、裏庭に出るともうすぐ目の前が島の縁だ。
 奈々は譲の後について生垣づたいに隣のビルへ回りこみ・・・・・・
 息を呑んだ。
 骨組みのままの地面がムキだしになっている。
 はるか下に、海。
 浮き島の骨組みの間で、渦がめまぐるしく現れては消える。コンピュータのカオス映像みたい。
 逆巻く波が骨組みにぶつかっては、派手な波しぶきをたてる。空ろな空間で反響された波の音が、その度にワンワンと響く。
「まだ工事中。二年前は、何もかもこんな風だった。でも、こういうの見たら人間も捨てたもんじゃないなって思えてさ。」
 顔をあげると、広大な水の連なりがどこまでも広がっているのが見える。
 その中で、孤独でちっぽけな人工の島は、それでもほとんど揺れを感じさせることなく海に浮いている。
 少し傾きかけた日が、海を宝石みたいに輝かせている。奈々は潮風を大きく吸いこむ。
「気持ちいー。なんか叫んじゃいたい気分。」
「叫べよ。俺もむしゃくしゃした時、ここで叫んでた。」
「ホント?」
 奈々は息を吸い、口に手をあてて叫んでみた。
「ヤッホー!」
 声は骨組みに当たってかすかに反響し、海へずっと伸びて波の音に消されていく。
 隣の譲が怒鳴った。
「バカやろーっ!」
 奈々はびっくりして目を丸くする。
「誰に言ったの、今の?」
「分かんない。会社かな。俺にかも? でもすっきりするぜ。」
 奈々は真似して叫んでみる。
「バカぁー、死んじゃえーっ!」
 波が嫌なことを全部押し流してくれる気がした。
 そうよ、あたしの悩みなんてちっぽけなことなのに。監獄に入ったわけじゃないし、入ったってちゃんと生きてる人もいっぱいいる。
 奈々はポケットからディスクを取り出し、じっと見た。
 あの時、譲と会えてよかった。
 こんなの、ホントにあたしが望んでることじゃないもん。
 大きくスイングして、海へディスクを投げようとする。
「待った。」
 譲が腕をつかんだ。
「え、なんで?」
「捨ててくのは気持ちだけにしようぜ。初期化(フォーマット)すりゃまた使える。」
「さっすが元風紀委員。」
 奈々はクスリと笑ってディスクを譲のポケットに押しこんだ。

 奈々はガラリと扉を開けた。
 教室にいたのは十人くらい。
 口々に話していたのが、奈々を見ていきなり黙りこむ。
 ふんだ。なんだってのよ。
「なぁにじろじろ見てんのよっ。なんかついてる? それとも見とれちゃった?」
 カバンを机に放りなげる。
 端末は相変わらずないけど、うん、いいや。後で先生に交渉してとりかえしてやるっ。
 勢いよく椅子をひいて腰をおろしたのは少々空元気でなくもないが、大方の元気は取り戻している。立ち直りの早いのが奈々のとりえだ。
「ね、なんの噂してたのよ?」
 隣の男子生徒に詰めよると相手は一瞬言葉につまり、やがて意を決したようにどもりながら尋ねた。
「あ、あの話ってホントなの? つかまってたって奴。」
「本当よ。あんた達がくっだらない授業を受けてる間、あたしはもっとしょーもない質問攻めで時間をつぶしてたわけ。」
「どんなこと聞かれたの?」
 彼が尋ねると、一緒にいた他の生徒たちも好奇心が押さえられなくなったように、次々と質問を口にしてくる。
「なんでつかまったの?」
「どんなこと聞かれるの?」
「食事おいしかった?」
「ああもうっ、一度にそんな答えられないわよぅ。」
 叫んだ奈々はふと人の気配を感じ、顔をあげた。
 舞が目の前に立っていた。
「おはよ、奈々。」
 申し訳なさそうにそっと言い、
「こないだはごめんね。」
「こないだ? なんのこと?」
 と、問い返したのは空元気ではなくて本当に忘れているせい。
「遊びに行くの、断っちゃったでしょ・・・・・・」
「ああ、あれね。別にいいのよ。」
「あのね奈々、あたしは行くつもりだったんだけど、ママが・・・・・・」
「犯罪者とはつきあっちゃいけないって?」
「・・・・・・そこまでは言ってないけど。」
 舞は少しためらい、それから決心したように尋ねた。
「ホントのところは、どうなの? みんながね、奈々が警察につかまったってうわさしてた。留置所にいたって。でもあたし、」
「留置所にいたのはホント。あたしは悪いことしてない、それもホント。」
「そうだよね。そうだと思ってた。」
 舞がニコリと笑った。
「なんか役にたてることがあったら言ってね。できる限り協力するから。」
「ありがと。じゃあ早速で悪いんだけど、後で電話貸してくれる? 携帯、とりあげられちゃって困ってるんだ。」
 舞がうなずきかけた時、呼び出し音が鳴った。
 舞はちょっと驚いた様子で電話をとりあげる。
 こんなに朝早く電話がかかってくるなんて珍しい。
 舞の電話は淡いパールピンクだ。着信すると赤い模様がピカピカ光る。キャラクタのシールや家で買っている犬の写真が表面に貼ってある。
 話をしていた舞が首を傾げて奈々に電話を手渡した。
「奈々にだって。」
「えっ? あたし?!」
「よくわかんない。男の子だけど。スヌーピーがどうとか・・・・・・」
「貸してっ。」
 奈々はとびつくようにして受話器を奪いとり、イヤホンを耳にさす。
「SNOOPY?」
「SEVEN? 元気そうだね、ひさしぶり。」
「ちょっと、ストーカーみたいな真似、やめてよね。」
 舞の電話番号をスヌーピーに話した記憶はない。
 クラスメートに舞という子がいるという話ならしたかもしれない。それで調べたんだろうか。
 スヌーピーの声を聞いていると、愛らしいオブジェクト形状と高校生の姿が頭の中で交錯する。
 なんだかおかしな感じだ。直に会ったのが良かったのだか悪かったのだか。
「ごめん、急いで連絡したいことがあったからさ。前、調べてって言ってたKANGARUのIDを持つ人間、分かったよ。」
「誰だった?」
 奈々は身を乗り出す。
 あたしを追いまわしてた黄色いオブジェクト。ネット・ストーカー。
 真剣な顔で聞いていた奈々は、犯人の正体を聞いて呆気にとられた。
「信じらんない。それって、ホントに間違いないわけ? ・・・・・・言っとくけど、からかったりしたら・・・・・・」
「SEVENに嘘教えるほど命知らずじゃないよ。」
 スヌーピーがいたずらっぽい笑い声をたてる。
「分かった・・・・・・サンキュー。今度きっとお礼はするから。」
 奈々は電話を切って、少し考え込む。
 あいつの言うことがホントだったら、どうしてやろう。あんまりなめすぎてるじゃない?
「だれ? 彼氏?」
 舞が顔をのぞきこんだ。
「やだ! 何バカ言ってるのよ、友達よ。いい仲間。」
 奈々は顔を赤らめ、乱暴に電話を返す。
 本当のところ、舞にはすごく感謝してる。あたしのこと無条件で信じてくれたし、親に反対されても親切にしてくれるし。
 早くグローバルIDをとり返して、バイトして、でもってお金が入ったらなんかおごってあげよう。そうだ、譲にも。
 何人か生徒が教室に入ってきた。その中にお目当ての顔をみつけ、奈々は飛び上がるようにして席を立つ。
「ちょっとあんた! 話があるわっ。」
 おお! と周りの生徒達がどよめくのには目もくれず、奈々は生徒の集団から一人廊下へ無理矢理連れ出した。
 有無を言わさず腕をひいて隣のクラブ控え室へ入る。
 ここなら人もいないし、話を聞かれることもない。
 奈々が生徒の前に向き直ると、相手はどもりながら尋ねた。
「な、なに?」
 一緒に文化祭で仕事した生徒。小林 一樹。
 あの時も割とおとなしい奴だったけど、今はすっかり蛇ににらまれた蛙の(てい)。奈々の勢いに押されている。
「この間はご忠告どうもありがとう、KANGARUさん。しらばっくれたって駄目よ、分かってるんだから。」
 奈々は一樹の鼻先に指をつきつけた。
「あんな脅迫じみたことして、一体どういうつもりなの?」
 一樹はしばらく口をぱくぱくさせていたが、ようやくこう言った。
「きょ、脅迫じゃないよ。」
 じゃ、あれはやっぱりあんただったの? と奈々は心につぶやく。
 自分の格好をしていたポリゴンが辺りを荒らしまわっていた事情を知った後だと、IDだけで軽々しく本人だと決めつける気にはなれない。
 でも、ホントにこいつがやったんだとしたら、どうしてだろう? ネットワークもパソコンも素人みたいなこの男が、どうしてハッカーのことを口にしたりあたしの後を嗅ぎまわったりするわけ?
「なんであたしの後をつけたりしたの? あんた、何が目的なの?」
「俺はただ・・心配だったんだよ。」
「心配? なにが?」
「だってほら、望月がポリゴンを追ってくとこ・・・・・・あの文化祭の時、見ちゃったんだ。」
 一樹はぽつりぽつりと話しはじめた。
 文化祭の時、奈々がSEVENのポリゴンでサイバーカフェにログインしているのを見つけた。少し前に取得した自分のWWVSIDでログインしていた一樹は声をかけようとしたけれど、何かとても急いでいる風だった。
 どうも誰かを探しているらしい。
 後をついていくと、ルームの外で奈々が黒いレーシングスーツ姿の前に立ちはだかるところが見えた。相手が構わず奈々に向かって突進していくのも。
 助けようとしたけれど、間に合わない。
 幸いその時は何事も起こらなかったけれど、それから事件の行く末が気になって奈々のポリゴンの周りをつけたりしていたのだ。で、ハッカーのアングラサイトに出入りしたりバーチャル・デートしたりしているのを見てしまった。
 奈々は息をついた。
「なるほどね。で、ご親切にもそういう不道徳な行為はやめろって忠告に来てくれたってわけ?」
「いや、そんなつもりじゃ・・」
 一樹が口ごもる。
「ただ、心配だったからさ。」
「だから、心配って、何がよ? そういえば、こないだ、666がどうとか言ってたっけ。」
 オメガは危険だ。
 カンガルーのポリゴンはそう言っていたのだ。
「実はプリティ・アックスに聞いたんだけど・・・・・・」
「あんた、プリティ・アックスにも会ったの?!」
 奈々はすっとんきょうな声を出す。
 プリティ・アックスとはイエロー・ハッカーズニュースのサイトでしか会ったことがない。
 こいつも、イエロー・フィッシュカフェに入ってきたの? 会員制なのに。
「こないだ、ログインしっぱなしで帰っちゃっただろ。で、その時に・・・・・・」
「あたしのカッコでアクセスしたわけ?」
「ごめん・・・・・・」
「はぁ、この私が素人にハックされるとはねぇ。」
 奈々は思わず額を押さえる。
「あ、でもカフェの外には出てないよ。出ようとしたら強制切断された。」
「当たり前よ。あそこじゃオブジェクトが別の場所(サイト)に移動する度に、必ず認証局に問い合わせに行くようになってるんだから。あたしの姿であっちこっち出回られたらたまんないわよ。・・・・・・だけど、声はどうしたの?」
「合成音声に切り替えて、テキスト入力した。マシンの調子がおかしいからって。」
「ご立派。いいハッカーになれるわよ。」
 とっさにそういう機転が利くとはたいしたものだ。ソーシャル・エンジアリングの達人になれるかもしれない。
「でも、突然現れて合成音声で話しかけるのはやめてよね。お化け屋敷の時、脅迫されてるみたいな気分だったんだから。」
「ご、ごめん・・・・・・」
 でもあたしも、悪気がなくて人を怖がらせてたことがあるかもね、と奈々は思い返す。
 電子会議室に悪戯プログラムをしかけてきた時とか、譲にメールを送った時もそう。あれは報復のつもりだったんだけど、悪いことしちゃったな。気をつけないと。
「で、666がどうしたの?」
「ああそう、俺もよく分からないんだけどさ。今まで失踪したハッカーにオメガって奴が絡んでるって噂があるらしい。ファイア・・・・・・なんだっけ、えーと。」
「ファイア・プルーフ?」
「そう、そいつがいなくなる前に、オメガってとこからメールがきたらしい。それには666って数字があってさ。キラーもオメガについて何か言い残して消えたとか。あと、グリーン・アイズの売ってたパスワード・リストの表の末尾がみんな666に変わってたって。」
 マシン・ノイズだけじゃなかったのだ。
 つまり、4つの失踪事件は関連があるってこと?
「666っていう数字を、誰かが署名(シグニチャー)として残したんじゃないかってプリティアックスがいってた。だから、その事件についてあんまり調べたりすると危険かもしれないって。」
「そんな大袈裟な。」
「それだけじゃないんだよ。『ネクストジェネレーション』って知ってる?」
「あの頃発売されたCPU(プロセッサ)でしょ?」
「そう。そのはじっこにバーコードらしきものが印字されてたんだって。それを訳すと、『666 復讐(リベンジ)』。」
 奈々は呆気にとられた。
 コンピュータのチップに脅迫文。そんなとんでもないことできる奴がハッカーの失踪に関わってるんだろうか。
 666。なんで666ななんだろう?
 どこかで聞いたことのある数字だ。確か聖書に関連する数字とか。
 どっかのハッカーのコミュニティで、入り口のパスワードを666にしてたっけ。ただそれとこれが関係あるかどうかはよく分からない。
 ああっ、端末が使えれば調べられるのにっ。
 奈々は歯噛みし、ついでに色々なことを思い出す。
 そうだ、まだやらなきゃいけないことばいっぱいある。プリティ・アックスにも連絡したいし、まずは山田の奴にも一言言ってやらないと気がすまない。
「そういえば、小林ってグローバルID使えるんだよねぇ?」
「うん。」
「ちょっと調べてほしいんだけど・・」
 奈々の頼みを聞いて一樹は顔をしかめた。
「危険だって言われてるだろ。やめた方がいいよ。」
「だからって、これだけコケにされて黙ってるわけにいかないじゃない。ここは世界一安全な国、日本なんだし。」
 一樹はうなずこうとしない。
「じゃあとりあえず、友達の連絡先、調べさせて。それなら危険じゃないでしょ。ね、いいでしょ?」
 奈々の強引なお願いに、とうとう一樹も譲歩する。
 視聴覚室に行き、端末を立ち上げた。
 授業が始まるまであと十分。それまでに調べられる?
 奈々は普段とはうってかわった真剣な表情で端末を操作する。
 一樹はため息をつき、奈々の横顔をじっと見つめた。

<前へ  目次へ戻る  次へ>